デヴィ 夫人。 デヴィ夫人、「気分が悪くなる」コロナ専門家・岡田晴恵氏への批判で大反響(1ページ目)

デヴィ夫人の若い頃は?年齢は?本名は?ハーフ?スカルノ大統領との出会いは?

デヴィ 夫人

デヴィ夫人、いつまでも若々しくてお綺麗ですね。 偉そうで上から目線な物言いがいやだ、という人も多いですが、管理人はデヴィ夫人大好きです。 実際、戦後の日本を救った人です。 デヴィ夫人は、日本で生まれて、インドネシア国籍を持っています。 東京青山の利発な大工の娘が、来日中のインドネシアのスカルノ大統領に見初められ、日本人女性として初めて外国の国家元首の夫人となりました。 『元』がつきますが、間違いなくインドネシアという大国の大統領夫人だったのです。 現在ではテレビタレントとしての認知が多いですが、その素顔は、 ・インドネシアのスカルノ元大統領第3夫人 ・NPO法人アースエイドソサエティで総裁 ・株式会社デヴィーナ・ソサエティでは代表取締役 など、様々な顔を持っています。 今日は、デヴィ夫人の経歴や資産、家族について調べてみました。 スポンサーリンク デヴィ夫人の前半生は高級クラブから始まった 何はともあれ、まず経歴を。 本名 ラトナ・サリ・デヴィ・スカルノ (インドネシア名) 根本 七保子 (旧名・日本名) 別名義 デヴィ夫人 生年月日 1940年2月6日(2018年で78歳) 出生地 東京府東京市麻布区霞町 (現:東京都港区西麻布) 国籍 インドネシア 職業 タレント 配偶者 スカルノ元大統領 敗戦後の東京という時代、大工だった父親は視力を失って仕事ができず、一家の家計は足が悪い母親の内職のみが頼りで、あとは弟一人(のちに自死)の4人家族。 家庭は裕福ではなく多額の借金もあり、太平洋戦争中は福島県に疎開をしていたこともあります。 幼少時の貧困に起因する屈辱や差別から抜け出そうと、当時の倍率150倍という難関を突破して生命保険会社に就職しますが、その合間に他にも、喫茶店でアルバイトをするなど、学生時代は働き詰めの毎日を送ります。 後妻の実母と弟を経済的に養うためにあきらめた高校進学、仕事の合間の昼休みを抜け出して近くの喫茶店での50分間のアルバイト、定時制高校への通学などのハードな生活。 15歳で映画『青ヶ島の子供たち 女教師の記録』にアルバイトでエキストラ出演したこともあります。 若いころはそれはそれは美人で、途方もなく美しい人でした。 今もですけど。 若い頃のデヴィ夫人可愛すぎる…貧しい家の出身だったんだなぁ。 知性を身につけるために相当努力されたようだ。 — 🍣凛乃子 ring6565 あまりに美しすぎて日本人に見えないため「ハーフなのでは?」という声もあがっていますが、デヴィ夫人は 純日本人です。 ここは日本はもちろん海外の政治家など、いわゆるVIPを接待するレベルの高級クラブ。 デヴィ夫人はここで、次のことを決心します。 ・生きた英語を身につけること ・茶道・日舞などを習い、基礎教養を身につけること ・人脈をつくり、お金をしっかりためること もう10代後半から「知識・教養を磨いて成功する!!」決めていたのです。 最初は中小企業の『東日貿易』社長の久保正雄という男性と知り合います。 その後、政財界のフィクサー・児玉誉士夫によって見出されたデヴィ夫人は、1959年19歳のときに、インドネシアへの開発援助事業に日本企業が参入するため、もっと言えば 日本国民1億人を食べさせるため、インドネシアに「捧げ物」として「献上」されたのです。 名目上は「東日貿易の秘書」でしたが、デヴィ夫人は日本が国際社会に復帰するための犠牲としてインドネシアに送り込まれた形になります。 終戦後、1950年の朝鮮戦争特需でやっと息を吹き返したもののまだまだ体力がなかった日本とは対照的に、1945年に独立して意気軒昂としたインドネシアは、敗戦国日本よりずっと先進国で、国際的な地位も高かった。 しかしインドネシアもまだ独立したばかり、東西冷戦下にあったインドネシアにおいて、スカルノ大統領は、日本外交を重視していましたし、諸外国からの資金援助の取付けもほしかった。 まだ戦後の賠償問題がケリついてなくて、独立国としての立場も危うかった日本は、 デヴィ夫人をきっかけとして、インドネシアとの戦後賠償問題が片付き、日本が戦後復興するための足掛かりとしました。 実際、1958年1月に調印されたインドネシアに対する戦後賠償事業をきっかけとして、日本は世界への復帰を果たすことができました。 デヴィ夫人は、戦後日本復興の功労者です。 デヴィ夫人は独裁者スカルノ元大統領の数多くいる愛人の一人になり、その聡明さと美貌でなみ居るライバルを蹴落とし、1962年、22歳で第三夫人となりました。 インドネシアはイスラム教なので、男性は4人まで奥さんを持てるのです。 デヴィ夫人の総入れ歯説 20歳そこそこの女性がたった一人で、異国の大統領夫人として独裁者の宮殿に入ることがどういうことか。 日本の今の会社だって、女性同士の揉め事がお局のいじめとかモラハラとかマウンティングとかひどいものですが、当時のスカルノ元大統領の周辺は、こういったゴタゴタに文字通り生死がかかってくる世界です。 デヴィ夫人以前にも、スカルの元大統領に献上された日本人ホステスはいましたが、他の夫人や愛人の嫌がらせなどにあって自死してしまったようです。 デヴィ夫人は頭が良くて気が強かったので、生き残ることができました。 日本復興の捧げ物としてインドネシアに送り込まれた彼女に退路などありません、宮殿内で生き残るために、頼りになるのは権力者スカルノの愛情だけ。 デヴィ夫人が総入れ歯とよくいわれていますが、真偽のほどはわかりませんが、もしそうだとしたら、権力を持つ男性の寵を得るため、 『夜の営み』のために総入れ歯にしたとしか考えられません。 そこまでした権力と愛憎の世界を戦って生き残ってきた、常人には想像もつかない波瀾万丈の人生を送ってきた人です。 デヴィ夫人はこの頃、マスコミの執拗な取材により、もともと病弱だった母親が体調を崩してなくなっています。 その2日後、セールスマンに全財産を騙し取られた実弟が、自宅アパートで自死。 それを伝え聞いたインドネシアのデヴィ夫人は嘆き悲しみ、後年、ジャカルタに建てた宮殿の一つに実弟の名前をつけています。 スポンサーリンク デヴィ夫人の資産はどのくらい? デヴィ夫人は大統領夫人時代、世界の社交界で活躍、「東洋の真珠」「社交界の華」と賞賛されます。 この立場を利用して、当時もさまざまな蓄財に励んでいますし、現在も「元大統領夫人」であった影響力は強いです。 日本企業や役所などを仲介して利益を得る 戦後の高度経済成長期を、インドネシアの独裁者の妻として愛人として過ごしていた元日本人のデヴィ夫人。 もともと、彼女が スカルノ夫人になったのも接待役として近づいたのが縁で、接近させたのはある大手商社だとか。 インドネシアは縁故主義が強く、日本企業がインドネシアに進出したいと考えていても、地縁血縁ないとビジネスになりません。 このため、日本企業のみならず日本政府でさえ、デヴィ夫人をインドネシアにおける窓口として使ってフル活用します。 スカルノ元大統領自身もこれでかなり蓄財しましたし、デヴィ夫人の重要性は、第三夫人ながらかなり高いものでした。 こうった経緯があるため、デヴィ夫人は日本の企業や役所の裏も表も知り尽くしているのです。 戦後復興のドサクサや高度経済成長期にまつわる、様々な会社や政治家や役人の裏の裏まで知り尽くしていると言ってもいい人ですが、決して口外しませんし、その口の堅さがまた恐ろしいのです 笑。 クーデターで全てを失うものの、莫大な遺産を得る しかしスカルノ元大統領の妻になってたった3年後の1965年、25歳の時に、スカルノ大統領は軍事クーデターにより失脚、デヴィ夫人は政権交代の大混乱の中、大統領のもとを離れて逃げ切りました。 いろいろありましたがその後、インドネシア政府から正式に前大統領の第3夫人として遺産分与を受け、少なくとも20億円といわれる資産を受け取ってます。 また、頭脳明晰なデヴィ夫人は、政権崩壊前にスカルノの隠し資産を個人名義の口座に移したり、大統領から贈られた財産の名義を個人名義にすぐさま切り変えて守り通し、スカルノの信頼を勝ち取ることができました。 この功績を評価されて、スカルノ死去時に遺産が与えられたとも言われており、実際は不明ですが、さらに数十億の資産があるとかいわれています。 インドネシア帰国、元大統領夫人力で仲介ビジネス 1980年、40歳の時にいちどインドネシアに戻り、石油関連ビジネスを始めています。 インドネシアの旧宗主国オランダの金融機関 後に娘の夫がオランダの銀行家 、日本企業、欧米企業を 東南アジアのサロンに招き、要人に紹介して繋げることで仲介料をとりました。 フィリピンの大統領マルコス夫人イメルダ、インド要人、タイ王家、カンボジアのシアヌーク殿下……などなど、幅広い交友をフル活用し、ビジネスを成功させています。 インドネシア政府に没収された不動産の一部は、この時に取り戻したとか。 今、デヴィ夫人の持つ資産の大半はこのときに稼いだものです。 このように、昔の人脈を利用したヨーロッパにおける事業や株の収入があり、本人ははっきりとした金額は公表しませんが、 ・東京都内の豪邸に住み ・世界中に別荘を所有し(NY、パリ、バリなど)、 ・お抱えシェフを雇える という暮らしを維持できているので、何一つ不自由しておりません。 芸能界復帰後もテレビのスポンサー企業に貢献 こういった過去を持っている人ですので、インドネシアはもちろん世界中に人脈があります。 デヴィ夫人は1990年代から日本の芸能界に登場していますが、半分は番組スポンサー関連のビジネス広告でしょう。 お金目当てではないのでギャラは安く、依頼すればどんなことでもやってくれるので、重宝されているそうです。 実際は、スポンサー企業の仲介ビジネスなどをしてるのでしょうね。 デヴィ夫人の家族は?孫がかわいい デヴィ夫人は、スカルノ元大統領存命中にも関わらず数回の婚約発表が取りざたされたのですが、最終的に再婚はしていません。 1967年に、東京都内の病院で1人のカリナさんを出産後、デヴィ夫人はフランスへと亡命しています。 その後インドネシアに戻りますが、ニューヨークへ移住。 娘のカリナさんはニューヨークで育ち、ヴィヴィアン・ウェストウッド勤務後、2005年にアメリカの大手金融機関シティバンクのCEOの最高責任者、フレデリック・F・シーガス氏と結婚。 カリナさんにはもう何人かお子さんがいますが、その長男である「キランくん」がハンサムで頭脳明晰だと話題になっています。 キランはサンスクリット語で『光の輝き』と言う意味で、まだ幼いのに英語、インドネシア語、オランダ語、フランス語の4ヶ国語を話せるとか。 さすが、スカルノの孫、ということでしょうか。 ホント東洋の真珠ですね。 今でも十分お美しいですがビックリ! — 株猿チンパン 猿-513 kabusaru デヴィ夫人の若い頃は、確かに水商売を経験していますし、コールガールっぽいこともやっていたかもしれませんが、ただのコールガールではありませんでした。 デヴィ夫人の本職は「スカルノ元大統領の第3夫人」「スカルノ家の一員」で、ビジネスのために半分趣味で芸能人やってる人です。 もともと、幼い時からものおじしせずに物を言う性格、美貌や絵の才能、勉学にも秀でていたらしく、やはり日本で平凡な人生を送る女性ではなかったような気がします。 若い頃からハングリー精神と上昇志向が強く、負けず嫌いで猪突猛進的な性格、いまだ変わらぬ強靭な意志と、怖いもの知らずの行動力。 前半生を犠牲にして日本のために貢献したのに、恨みがましいことや恩着せがましいことなど何一つ発言していません。 デヴィ夫人を知るたびに、応援したくなります。 時代の生き証人として、長生きしていただきたいです。 【参考】 スポンサーリンク.

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デヴィ夫人の名言炸裂な恋愛観!壮絶な人生&選ばれる女におなりなさいまとめ

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もくじ• デヴィ夫人の娘カリナのプロフィール デヴィ夫人、1人娘・カリナさんとのツーショットを公開「美しすぎる母娘」と称賛の声 — サイちゃん@相互フォロー sai21123• 名前 カリナ・サリ・デヴィ・スカルノ• 出身 東京都• 生年月日 1967年3月11日 カリナさんの父親はインドネシアの元大統領であるスカルノ大統領です。 デヴィ夫人は16歳の頃から高級クラブのホステスをしており、19歳のころスカルノ大統領に見初められます。 そして22歳の時、 スカルノ大統領の第三夫人として 結婚。 インドネシアは一夫多妻制で、スカルノ大統領には4人の奥さんがいたそうです。 しかしデヴィ夫人が25歳の時インドネシアではクーデターが発生します。 27歳でカリナさんを 日本で出産しますが、その当時は既に夫のスカルノ大統領は失脚させられ、軟禁状態に。 そしてカリナさんが生まれて3年後に大統領は亡くなります。 カリナさんは巨額の遺産は手にしたものの、日本へ帰ることは許されず、亡命に比較的寛容な フランスへと渡ったそうです。 つまりカリナさんは日本生まれではありますが育ちはフランス。 その後のアメリカの大学へ進学したそうです。 デヴィ夫人の娘カリナの旦那が超エリート デヴィ夫人の娘カリナさんは2005年、38歳でご 結婚されています。 そのお相手が、 フレデリック・F・シーガス氏という方です。 フレデリック・F・シーガス氏は オランダ出身で1959年生まれ。 この方なんとアメリカの超エリートと言われる職業の米系大手金融機関シティバンクの欧州・中近東・アフリカ地区CEOだそうです。 すごいエリートですね! デヴィ夫人の娘カリナの息子がイケメン デヴィ夫人のお孫さんのキランくん。 すっごく跡部みある。 息子さんの名前は フレデリック・キラン・スカルノ・ゼーガースくん。 キランくんという愛称で親しまれているようですね。 デヴィ夫人のSNSにも度々登場しています。 テレビ番組にも出演されたことがあるようですね。 キラン君は2007年5月26日生まれ。 しかし既に英語、オランダ語、フランス語、オランダ語、ラテン語、日本語の 6か国語が話せるみたいです。 デヴィ夫人は、このキラン君を溺愛していてテレビでは【孫バカ】だなんて言われていたこともあったようです。 デヴィ夫人とカリナさんの不仲説もありましたが、母娘関係も、このキラン君が生まれたことにより変わったといいます。 自身が母になって、カリナさんも母としての気持ちを理解することが出来たのかもしれませんね。

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デヴィ・スカルノ

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ハーフではありません。 貧しかった少女時代 デヴィ夫人のお父さんは、大工の棟梁だったのですが、 お人好しで、お金を取らずに家を建てられていたことから、 家庭は貧しかったそうで、 デヴィ夫人は、1955年、15歳の時、 貧乏から抜け出すために女優になろうと決意されると、 「東芸プロダクション」に研究生として入団。 演技や舞踊などを習い始めると、 エキストラとしてテレビや映画に出演され、 お金を稼ぐようになったそうです。 中学時代のデヴィ夫人 そして、中学卒業後は、定時制高校に進学されるのですが、 エキストラだけでは満足な収入が得られなかったため、 「千代田生命保険会社」(現・ジブラルタ生命保険)に就職され、 お昼休みの1時間は会社の近くの喫茶店でアルバイトを、 土日もコーヒーショップでアルバイトをして、 貧しい家計を支えられたのでした。 高校時代のデヴィ夫人 高級クラブ「コパカバーナ」で働き、世界進出を模索 しかし、1956年には、 お父さんが亡くなってしまい、高校は中退。 ただ、その後も引き続き、様々な仕事を掛け持ちして、 家計を支えられていたデヴィ夫人は、 翌年の1957年、17歳の時に、 アメリカ人宝石商のジェイムズ・ベイカーさんと知り合われ、 お金持ちだったベイカーさんに、 いろいろなところに連れて行ってもらうようになると、 その中のひとつ、赤坂にある有名高級クラブ、 「コパカバーナ」に出入りするようになります。 そして、 「コパカバーナ」のオーナーだった、 長尾久子さんに気に入られ、 「コパカバーナ」で働き始めると、 持ち前の美貌で 「プリンセス」と呼ばれるなど、 瞬く間に人気者となられたのでした。 18歳当時のデヴィ夫人 ちなみに、デヴィ夫人は当時を振り返り、 お客さんの90%が外国人。 世界の社交場のような名声を得ていて、 当時の大学新卒の給与が1万ぐらいだった時代に、 その時のテーブルチャージは、 フランク・シナトラが歌った夜は1人10万円。 どのぐらい豪華なクラブだったかお分かりかしら。 新聞の朝刊に米上院議員のテッド・ケネディ氏が来日したとあると、 その夜には彼の姿がそこにあるぐらいの世界の社交場。 ここで働く女性はファッション誌から抜け出したような人たちばかり。 そして、ここへ遊びにいらっしゃる紳士たちは女性の椅子を引き、 飲み物をオーダー、ダンスをする時は手を差しのべる、 すべてがレディーファースト。 わたくしは美しい花、 そう「レディ」に憧れを抱いておりました。 と、明かされているのですが、 実は、デヴィ夫人が 「コパカバーナ」で働く理由には、 自立や家計を支えること以外にも、英語を話せるようになる、 という目的もあったそうで、 働きながら、英会話の練習をする日々を送り、 一流の外国人と会話を交わしながら、 世界進出を模索するチャンスを伺っていたのでした。 スカルノ大統領との出会い すると、1959年、19歳の時、 旧帝国ホテルのプルニエ(フランス風の魚介類料理専門のレストラン) で友達と待ち合わせをしていたところ、 ちょうど、来日中で、同ホテルでパーティーをしていた、 インドネシアのスカルノ大統領に一目惚れをされ、 なんと、その場で、大統領の側近から、 大統領と一緒にお茶を飲みませんか? と、誘われると、案内されるままに、 大統領の隣に座らされたそうで、 スカルの大統領と当時20歳のデヴィ夫人。 (大統領官邸ムルデカ宮殿にて) デヴィ夫人は、その時のスカルノ大統領について、 大きな目はキラキラと輝き、チャーミングな八重歯が印象的。 第一印象で、慈悲深い大きな優しさを感じ、一瞬、 イナズマに打たれた気がしたのは今もハッキリと覚えています。 クラブで働いていたので、 外国の富豪とは対等にお付き合いしてきましたが、 それでもその時の雰囲気は特別! とても緊張しましたが、 しばらく談笑してその日はお別れいたしました。 と、明かされています。 Sponsored Link 文通後、インドネシアへ その後、デヴィ夫人は、スカルノ大統領から、 「写真を送ってほしい」と手紙をもらったそうで、 写真を添えて返信されると、 それ以来3ヶ月間、文通されていたのですが、 ある日のこと、いつものように、 スカルノ大統領からの手紙を受け取ると、 そこには、 2週間ぐらいインドネシアに遊びに来ませんか? と、書かれてあったのだとか。 実は、当時、デヴィ夫人は、 アメリカやフィリピンの大富豪たちから求婚されていたそうで、 それでも、自分の人生は他にあるのではないかと、 決めかねていた折の、スカルノ大統領からの誘いに、 多少、国の大統領であるという不安はあったのですが、 「インドネシアへ行ったら、何か閃めきがあるかもしれない」 と、思われたそうで、 インドネシア行きを決意されたのでした。 に続く.

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