相撲 打っ棄り。 相撲技名・相撲技一覧

火ノ丸相撲の第236話ネタバレ&感想「横綱との距離」三日月の一撃

相撲 打っ棄り

打っ棄りは、昨今減ってしまった決まり手の代表的存在でしょう。 ここ数年で思い浮かぶ使い手といえば元大関の霧島あたりですが、それでも 引退してもう10年以上経っています。 少年時代、最初に相撲の面白さを感じたのは打っ棄りでした。 迫力とスリル、そして美しさを感じたのも打っ棄りでした。 当時、分解写真(スローモーションという技術がまだ無かった時代です)を 見ながら解説者(神風さんか玉の海さん)が、「まだ胸が合ってますねえ」 とか「ここで体が割れましたねえ」などと言うのをドキドキして聞いていた ものです。 若浪の得意手は吊りと打っ棄り。 178センチ、103キロの細身。 しかし体は筋骨隆々、それも決して器具 を使っては作ることの出来ないナチュラルな筋肉を持っていました。 若浪の打っ棄りは、まさに唯一無二のものです。 普通の打っ棄りは相手の体を割らせるため横に振りますが、若浪のそれは 強靭な足腰を支点にして、後方に放り投げるように決めるのです。 高見山のような巨漢に決めれば壮観。 テレビで見ている方も、5センチほど 腰が浮きそうな感覚です。 その強烈な映像は、今も目に焼き付いています。 濃いもみあげに胸毛、濃い眉に切れ長の目、口元はいつも若干への字に結び いかにも頑固者といった風貌。 仕事に厳しい大工の棟梁といった雰囲気で、 何の仕事をしても職人的存在になったのではないかと思わせるものでした。 酒豪で歌が上手く、会心の一番では思わず表情が崩れてしまう純情さ。 実像も、イメージそのものだったような気がします。 昭和43年春場所に平幕優勝。 この場所の優勝争いは、ここ50年でも5本 の指に入るほど印象に残っていますが、その理由はまたの機会に。 元小結、若浪 順 生年月日 昭和16年 3月 1日 没年月日 平成19年 4月16日.

次の

うっちゃり

相撲 打っ棄り

打っ棄りは、昨今減ってしまった決まり手の代表的存在でしょう。 ここ数年で思い浮かぶ使い手といえば元大関の霧島あたりですが、それでも 引退してもう10年以上経っています。 少年時代、最初に相撲の面白さを感じたのは打っ棄りでした。 迫力とスリル、そして美しさを感じたのも打っ棄りでした。 当時、分解写真(スローモーションという技術がまだ無かった時代です)を 見ながら解説者(神風さんか玉の海さん)が、「まだ胸が合ってますねえ」 とか「ここで体が割れましたねえ」などと言うのをドキドキして聞いていた ものです。 若浪の得意手は吊りと打っ棄り。 178センチ、103キロの細身。 しかし体は筋骨隆々、それも決して器具 を使っては作ることの出来ないナチュラルな筋肉を持っていました。 若浪の打っ棄りは、まさに唯一無二のものです。 普通の打っ棄りは相手の体を割らせるため横に振りますが、若浪のそれは 強靭な足腰を支点にして、後方に放り投げるように決めるのです。 高見山のような巨漢に決めれば壮観。 テレビで見ている方も、5センチほど 腰が浮きそうな感覚です。 その強烈な映像は、今も目に焼き付いています。 濃いもみあげに胸毛、濃い眉に切れ長の目、口元はいつも若干への字に結び いかにも頑固者といった風貌。 仕事に厳しい大工の棟梁といった雰囲気で、 何の仕事をしても職人的存在になったのではないかと思わせるものでした。 酒豪で歌が上手く、会心の一番では思わず表情が崩れてしまう純情さ。 実像も、イメージそのものだったような気がします。 昭和43年春場所に平幕優勝。 この場所の優勝争いは、ここ50年でも5本 の指に入るほど印象に残っていますが、その理由はまたの機会に。 元小結、若浪 順 生年月日 昭和16年 3月 1日 没年月日 平成19年 4月16日.

次の

【連載 名力士たちの『開眼』】 大関・大麒麟将能編 相撲は理屈じゃないんだ――不完全燃焼の残り火[その3]

相撲 打っ棄り

周りのライバルたちとはもちろん、自分の心の中に渦巻く不安との闘い。 そんな苦しい手探りの中で、「よし、これだっ。 こうやったら、オレはこの世界で食っていけるぞ」と確かな手応えを感じ取り、目の前が大きく開ける思いがする一瞬があるはずです。 一体力士たちは、どうやって暗闇の中で、そのメシのタネを拾ったのか。 これは、光を放った名力士たちの物語です。 相撲における[天才]と[閃き]の研究」を一部編集。 毎週金曜日に公開します。 【前回のあらすじ】入門以来順調な出世を続け、初土俵から2年後の秋場所には早くも幕下に駆け上がった。 しかし、おなかの中に寄生虫が発生する病気にかかり一転、負け越しが続くようになる。 力士をやめようと煩悶が続いたが、大阪の病院で診察を受けると好転。 ところが、そのあとの出世の早さはまるで雲を逆巻き天に駆け昇る龍のようだった。 大麒麟がさなだ虫に苦しんでいた昭和35(1960)年九州場所には、早くも関脇で最初の優勝。 やっと長いトンネルを脱し再び上昇気流を捕まえた36年九州場所には、22歳3カ月という当時の史上最年少記録で第48代横綱に昇進している。 つまり、大麒麟がいくら全力で追いかけても勝負にならなかったのである。 もっとも、稽古場で胸を借りるにはこれ以上の力士はいない。 十両を7場所で通過し、38年秋場所、待望の入幕を果たした大麒麟は、場所中もこの偉大な兄弟子の胸にぶつかるのが日課だった。 大鵬23歳、大麒麟21歳。 二人とも若く、稽古のし盛りだった。 新入幕の場所の9日目の朝、大麒麟は大鵬といつもの三番稽古をしていた。 稽古場の雰囲気も内容も、いつもとまったく同じである。 不幸というのは、こんなごくありふれた時間にひょいと顔を出す。 このときもそうだった。 二人の体が汗で光り始めたとき、投げの打ち合いで二人の体がもつれ、大麒麟の左足が返ったところに大鵬の体が乗っかるいうアクシデントが起こったのだ。 「ボキボキッ」 こうして大麒麟の二度目の隠忍自重の生活が始まった。 休場はこの場所と次の九州場所の2場所続き、39年初場所、無理を承知で出場したが、やはり大敗。 春場所、とうとう十両の座からも滑り落ち、無給で付け人もつかない西幕下5枚目まで転落してしまった。 しかし、本人はみんなが同情するほどつらくはなかった。 こうなった原因はケガであることはハッキリしている。 「復帰不能」とマスコミに書かれたこともあったが、足の負傷さえちゃんと治れば元に戻れる。 そんな自信があったからだ。 ただ、回復スピードはまさに遅々。 翌場所、1場所で十両に復帰したが、薄紙を剥ぐようにとはいかず、元の幕内に返り咲くまでなんと1年半、8場所もかかってしまった。 その間に玉の海、北の富士、清國、長谷川ら年下の生きのいい若手が追い越してドンドン上に。 これが足の痛みよりもこたえた。 自分一人が取り残されてしまったような、なんともいえない寂寥感に苛まれたのである。 「オレにも再び彼らに追い付ける日がやってくるのだろうか」 大麒麟の唇を噛み締める日々が続いた。 そして、そのつらさに耐え切り、待ちに待った日がやって来た。 再入幕を果たして6場所目の41年夏場所。 初日、長谷川に負けるなど、序盤はいきなり4連敗スタートと最悪だった。 しかし、5日目が大きな転機になった。 この日の相手は横綱の柏戸。 たまたま横綱栃ノ海が休場していたため、代役でぶつけられたのである。 大麒麟にとっては初めての横綱戦。 連敗中だっただけに、まるで屠所に引き出された牛のような暗い気持ちだった。 軍配が返ると、速攻が売り物の柏戸は右を差すと一気に寄ってきた。 ズルズルと後退する大麒麟。 まさに電車道である。 足のかかとが俵にかかったのが分かった。 もう飛び出すのは時間の問題だった。 追い詰められた大麒麟は夢中で体を右に振り、そのままドッと土俵下に転落。 起き上がると信じられないことが起こっていた。 なんと「打っ棄り」が決まり、軍配が高々と自分に挙がっていたのだ。 「ええっ、ホントッ!」 自分がやってのけたことがなかなか信じられず、花道を引き揚げながら何度も太ももをつねってみた。 痛かった。 これは夢なんかじゃない。 初金星で勝負の流れが急転した。 突然、動きがよくなり、翌日から大関の豊山、自分を追い越して行った清國らを連破。 終わってみると5日目からの11日間で9つの勝ち星を挙げ、初の三賞の殊勲賞に選出されたのだ。 このとき、骨折前に比べて自分が精神的にも肉体的にも一回り大きくなっていることに初めて気付いた。 人生に道草も有効なことを知ったのだ。 昭和17年6月20日、佐賀県佐賀市出身。 二所ノ関部屋。 182cm140kg。 昭和33年夏場所、本名の堤で初土俵。 37年名古屋場所新十両、麒麟児に改名。 38年秋場所新入幕。 45年夏場所、大麒麟に改名。 同年秋場所後、大関昇進。 幕内通算58場所、473勝337敗49休。 殊勲賞5回、技能賞4回。 49年九州場所に引退し、年寄押尾川を襲名。 50年、押尾川部屋を創設、関脇青葉城、益荒雄らを育てた。 平成17年部屋を閉じ、18年6月退職。 22年8月4日没、68歳。 『VANVAN相撲界』平成7年5月号掲載 おすすめ記事.

次の