きとう あかり 歌詞。 とおりゃんせ 歌詞の意味・解釈

グリーングリーン (ゲーム)

きとう あかり 歌詞

タイムテーブル 1月10日 木 14:00 A 1月11日 金 14:00 B/19:00 A 1月12日 土 13:00 A/18:00 B 1月13日 日 13:00 B 1月14日 祝月 13:00 A 1月15日 火 14:00 A/19:00 B 1月16日 水 14:00 B 説明 サイレント映画の女王とまで呼ばれた彼女は、なぜ二度も人々の前から消えたのか。 「椿姫事件」から「雪の逃避行」、そしてソ連亡命へ…。 20世紀の日本を揺るがした一大スキャンダルの真実とは? 昭和初期の人気女優、岡田嘉子の愛と信念に迫るミュージカル! 1919(大正8)年、新芸術座の女優・岡田嘉子は、座員の服部義治と恋仲になり、17歳で一児をもうけたが、まもなく俳優の山田隆弥と新たに恋愛関係となった。 悲嘆した服部は自殺してしまう。 山田には年上の女性がいたが、世間の目を気にすることなく、嘉子は関係を続けていた。 1927(昭和2)年、嘉子の主演映画「椿姫」の撮影中、嘉子と相手役の竹内良一が姿を消した。 駆け落ち先の大津で発見された二人はやがて結婚をするが、いつしか関係は冷え切り、別居生活を送るようになる。 そして1937(昭和12)年12月、嘉子は再び、事件を起こす。 映画での人気に陰りが見えて来た嘉子は活動の場を舞台に求めていたが、新協劇団の演出家の杉本良吉とともに、上野から夜行に乗り北海道から樺太へ。 そして翌1938(昭和13)年1月3日、国境を越えてソビエト社会主義共和国連邦(現ロシア連邦)へ亡命したのだった。 時代はまさに日中戦争が始まり、第二次世界大戦へと突入する直前。 執行猶予中の杉本は、召集令状を受ければ刑務所送りとなることを恐れ、自分を受け入れてくれると信じたソ連へ、病身の妻・智恵子を捨て、嘉子と共に身一つで向かったのだった。 愛と理想だけを手に、雪深い国境を越えた二人を待ち構えていたものは…。 その他注意事項 未就学児のご入場はご遠慮ください スタッフ 【美術】乘峯雅寛(文学座) 【振付】明羽美姫(イッツフォーリーズ) 【照明】森下 泰(ライトシップ) 【音響】返町吉保(キャンビット) 【衣裳】前岡直子 【歌唱指導】山口正義・藤森裕美(イッツフォーリーズ) 【稽古ピアノ】太田裕子 【床山】石渡英男 【演出助手】本藤起久子 【舞台監督】岩戸堅一(アートシーン) 【宣伝写真】江川誠志 【宣伝ヘアメイク】きとうせいこ 【イラスト・タイトルロゴ】たかなししん 【制作】鎌田奈々美 【プロデューサー】土屋友紀子 【製作協力】文学座/劇団文化座 【協力】クリオネ/劇団スーパー・エキセントリック・シアター/青年座映画放送 パシフィックボイス/フレンドシッププロモーション/MTプロジェクト.

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きとう あかり 歌詞

木曾路 ( きそじ )はすべて山の中である。 あるところは 岨 ( そば )づたいに行く 崖 ( がけ )の道であり、あるところは数十間の深さに臨む木曾川の岸であり、あるところは山の尾をめぐる谷の入り口である。 一筋の 街道 ( かいどう )はこの深い森林地帯を貫いていた。 東ざかいの桜沢から、西の 十曲峠 ( じっきょくとうげ )まで、木曾十一 宿 ( しゅく )はこの街道に添うて、二十二里余にわたる長い 谿谷 ( けいこく )の間に散在していた。 道路の位置も幾たびか改まったもので、古道はいつのまにか深い 山間 ( やまあい )に 埋 ( うず )もれた。 名高い 桟 ( かけはし )も、 蔦 ( つた )のかずらを頼みにしたような 危 ( あぶな )い場処ではなくなって、徳川時代の末にはすでに渡ることのできる橋であった。 新規に新規にとできた道はだんだん谷の下の方の位置へと 降 ( くだ )って来た。 道の狭いところには、木を 伐 ( き )って並べ、 藤 ( ふじ )づるでからめ、それで街道の狭いのを補った。 長い間にこの木曾路に起こって来た変化は、いくらかずつでも 嶮岨 ( けんそ )な山坂の多いところを歩きよくした。 そのかわり、大雨ごとにやって来る河水の 氾濫 ( はんらん )が旅行を困難にする。 そのたびに旅人は 最寄 ( もよ )り最寄りの宿場に 逗留 ( とうりゅう )して、道路の開通を待つこともめずらしくない。 この街道の変遷は幾世紀にわたる封建時代の発達をも、その制度組織の用心深さをも語っていた。 鉄砲を改め女を改めるほど旅行者の取り締まりを厳重にした時代に、これほどよい要害の地勢もないからである。 この 谿谷 ( けいこく )の最も深いところには 木曾福島 ( きそふくしま )の関所も隠れていた。 東山道 ( とうさんどう )とも言い、木曾街道六十九 次 ( つぎ )とも言った駅路の一部がここだ。 この道は東は 板橋 ( いたばし )を経て江戸に続き、西は 大津 ( おおつ )を経て京都にまで続いて行っている。 東海道方面を回らないほどの旅人は、 否 ( いや )でも 応 ( おう )でもこの道を踏まねばならぬ。 一里ごとに 塚 ( つか )を築き、 榎 ( えのき )を植えて、里程を知るたよりとした昔は、旅人はいずれも道中記をふところにして、宿場から宿場へとかかりながら、この街道筋を往来した。 馬籠 ( まごめ )は木曾十一宿の一つで、この長い谿谷の尽きたところにある。 西よりする木曾路の最初の入り口にあたる。 そこは 美濃境 ( みのざかい )にも近い。 美濃方面から十曲峠に添うて、曲がりくねった山坂をよじ登って来るものは、高い峠の上の位置にこの 宿 ( しゅく )を見つける。 街道の両側には一段ずつ 石垣 ( いしがき )を築いてその上に民家を建てたようなところで、風雪をしのぐための石を載せた板屋根がその左右に並んでいる。 宿場らしい 高札 ( こうさつ )の立つところを中心に、 本陣 ( ほんじん )、 問屋 ( といや )、 年寄 ( としより )、 伝馬役 ( てんまやく )、 定歩行役 ( じょうほこうやく )、 水役 ( みずやく )、 七里役 ( しちりやく )(飛脚)などより成る百軒ばかりの家々が 主 ( おも )な部分で、まだそのほかに宿内の控えとなっている 小名 ( こな )の家数を加えると六十軒ばかりの民家を数える。 荒町 ( あらまち )、みつや、 横手 ( よこて )、中のかや、 岩田 ( いわた )、 峠 ( とうげ )などの部落がそれだ。 そこの宿はずれでは 狸 ( たぬき )の 膏薬 ( こうやく )を売る。 名物 栗 ( くり )こわめしの看板を軒に掛けて、往来の客を待つ 御休処 ( おやすみどころ )もある。 山の中とは言いながら、広い空は 恵那山 ( えなさん )のふもとの方にひらけて、美濃の平野を望むことのできるような位置にもある。 なんとなく西の空気も 通 ( かよ )って来るようなところだ。 本陣の当主 吉左衛門 ( きちざえもん )と、年寄役の 金兵衛 ( きんべえ )とはこの村に生まれた。 吉左衛門は青山の家をつぎ、金兵衛は、小竹の家をついだ。 この人たちが宿役人として、駅路一切の世話に慣れたころは、 二人 ( ふたり )ともすでに五十の坂を越していた。 吉左衛門五十五歳、金兵衛の方は五十七歳にもなった。 これは当時としてめずらしいことでもない。 吉左衛門の父にあたる先代の半六などは六十六歳まで宿役人を勤めた。 それから家督を譲って、ようやく隠居したくらいの人だ。 吉左衛門にはすでに 半蔵 ( はんぞう )という跡継ぎがある。 しかし家督を譲って隠居しようなぞとは考えていない。 福島の役所からでもその 沙汰 ( さた )があって、いよいよ引退の時期が来るまでは、まだまだ勤められるだけ勤めようとしている。 金兵衛とても、この人に負けてはいなかった。 山里へは春の来ることもおそい。 毎年旧暦の三月に、 恵那 ( えな )山脈の雪も溶けはじめるころになると、にわかに人の往来も多い。 中津川 ( なかつがわ )の商人は 奥筋 ( おくすじ )( 三留野 ( みどの )、 上松 ( あげまつ )、福島から 奈良井 ( ならい )辺までをさす)への諸 勘定 ( かんじょう )を兼ねて、ぽつぽつ隣の国から登って来る。 伊那 ( いな )の谷の方からは 飯田 ( いいだ )の在のものが祭礼の 衣裳 ( いしょう )なぞを借りにやって来る。 太神楽 ( だいかぐら )もはいり込む。 伊勢 ( いせ )へ、津島へ、 金毘羅 ( こんぴら )へ、あるいは善光寺への 参詣 ( さんけい )もそのころから始まって、それらの団体をつくって通る旅人の群れの動きがこの街道に活気をそそぎ入れる。 西の領地よりする 参覲交代 ( さんきんこうたい )の大小の諸大名、日光への 例幣使 ( れいへいし )、大坂の 奉行 ( ぶぎょう )や 御加番衆 ( おかばんしゅう )などはここを通行した。 吉左衛門なり金兵衛なりは他の宿役人を誘い合わせ、 羽織 ( はおり )に無刀、 扇子 ( せんす )をさして、西の 宿境 ( しゅくざかい )までそれらの一行をうやうやしく出迎える。 そして東は 陣場 ( じんば )か、峠の上まで見送る。 宿から宿への 継立 ( つぎた )てと言えば、 人足 ( にんそく )や馬の世話から荷物の扱いまで、一通行あるごとに宿役人としての心づかいもかなり多い。 多人数の宿泊、もしくはお 小休 ( こやす )みの用意も忘れてはならなかった。 水戸 ( みと )の 御茶壺 ( おちゃつぼ )、公儀の 御鷹方 ( おたかかた )をも、こんなふうにして迎える。 しかしそれらは普通の場合である。 村方の財政や山林田地のことなぞに干渉されないで済む通行である。 福島勘定所の奉行を迎えるとか、木曾山一帯を支配する 尾張藩 ( おわりはん )の材木方を迎えるとかいう日になると、ただの送り迎えや継立てだけではなかなか済まされなかった。 多感な光景が街道にひらけることもある。 文政九年の十二月に、黒川村の百姓が 牢舎 ( ろうや )御免ということで、美濃境まで追放を命ぜられたことがある。 二十二人の人数が 宿籠 ( しゅくかご )で、朝の五つ 時 ( どき )に 馬籠 ( まごめ )へ着いた。 師走 ( しわす )ももう年の暮れに近い冬の日だ。 その時も、吉左衛門は金兵衛と一緒に雪の中を奔走して、村の二軒の 旅籠屋 ( はたごや )で昼じたくをさせるから 国境 ( くにざかい )へ見送るまでの世話をした。 もっとも、福島からは四人の 足軽 ( あしがる )が付き添って来たが、二十二人ともに残らず 腰繩 ( こしなわ )手錠であった。 五十余年の 生涯 ( しょうがい )の中で、この吉左衛門らが記憶に残る大通行と言えば、尾張藩主の 遺骸 ( いがい )がこの街道を通った時のことにとどめをさす。 藩主は江戸で 亡 ( な )くなって、その領地にあたる木曾谷を 輿 ( こし )で運ばれて行った。 福島の代官、山村氏から言えば、木曾谷中の行政上の支配権だけをこの名古屋の大領主から託されているわけだ。 吉左衛門らは 二人 ( ふたり )の主人をいただいていることになるので、名古屋城の藩主を 尾州 ( びしゅう )の殿と呼び、その配下にある山村氏を福島の 旦那 ( だんな )様と呼んで、「殿様」と「旦那様」で区別していた。 「あれは 天保 ( てんぽう )十年のことでした。 全く、あの時の御通行は 前代未聞 ( ぜんだいみもん )でしたわい。 」 この金兵衛の話が出るたびに、吉左衛門は日ごろから「本陣鼻」と言われるほど大きく 肉厚 ( にくあつ )な鼻の先へしわをよせる。 そして、「また金兵衛さんの前代未聞が出た」と言わないばかりに、 年齢 ( とし )の割合にはつやつやとした色の白い相手の顔をながめる。 しかし金兵衛の言うとおり、あの時の大通行は全く文字どおり前代未聞の事と言ってよかった。 同勢およそ千六百七十人ほどの人数がこの宿にあふれた。 問屋の 九太夫 ( くだゆう )、年寄役の 儀助 ( ぎすけ )、同役の新七、同じく 与次衛門 ( よじえもん )、これらの宿役人仲間から 組頭 ( くみがしら )のものはおろか、ほとんど村じゅう総がかりで事に当たった。 木曾谷中から寄せた七百三十人の人足だけでは、まだそれでも手が足りなくて、千人あまりもの伊那の 助郷 ( すけごう )が出たのもあの時だ。 諸方から集めた馬の数は二百二十匹にも上った。 吉左衛門の家は村でも一番大きい本陣のことだから言うまでもないが、金兵衛の 住居 ( すまい )にすら二人の 御用人 ( ごようにん )のほかに上下合わせて八十人の人数を泊め、馬も二匹引き受けた。 木曾は谷の中が狭くて、田畑もすくない。 限りのある米でこの多人数の通行をどうすることもできない。 伊那の谷からの通路にあたる 権兵衛 ( ごんべえ )街道の方には、馬の振る鈴音に調子を合わせるような 馬子唄 ( まごうた )が起こって、米をつけた 馬匹 ( ばひつ )の群れがこの木曾街道に続くのも、そういう時だ。 山の中の深さを思わせるようなものが、この村の周囲には数知れずあった。 林には 鹿 ( しか )も住んでいた。 あの用心深い獣は村の東南を流れる細い 下坂川 ( おりさかがわ )について、よくそこへ水を飲みに降りて来た。 古い歴史のある 御坂越 ( みさかごえ )をも、ここから 恵那 ( えな )山脈の方に望むことができる。 大宝 ( たいほう )の昔に初めて開かれた木曾路とは、実はその御坂を越えたものであるという。 その御坂越から幾つかの谷を隔てた恵那山のすその方には、霧が原の高原もひらけていて、そこにはまた古代の牧場の跡が遠くかすかに光っている。 この山の中だ。 時には荒くれた 猪 ( いのしし )が人家の並ぶ街道にまで飛び出す。 塩沢というところから出て来た猪は、 宿 ( しゅく )はずれの陣場から 薬師堂 ( やくしどう )の前を通り、それから村の舞台の方をあばれ回って、馬場へ突進したことがある。 それ猪だと言って、皆々鉄砲などを持ち出して騒いだが、日暮れになってその行くえもわからなかった。 この勢いのいい獣に比べると、 向山 ( むこうやま )から鹿の飛び出した時は、石屋の坂の方へ行き、七回りの 藪 ( やぶ )へはいった。 おおぜいの村の人が集まって、とうとう 一矢 ( ひとや )でその鹿を射とめた。 ところが隣村の 湯舟沢 ( ゆぶねざわ )の方から抗議が出て、しまいには口論にまでなったことがある。 「鹿よりも、けんかの方がよっぽどおもしろかった。 」 と吉左衛門は金兵衛に言って見せて笑った。 何かというと 二人 ( ふたり )は村のことに引っぱり出されるが、そんなけんかは取り合わなかった。 そういう樹木の生長する森林の方はことに山も深い。 この地方には 巣山 ( すやま )、 留山 ( とめやま )、 明山 ( あきやま )の区別があって、巣山と留山とは絶対に村民の立ち入ることを許されない森林地帯であり、明山のみが自由林とされていた。 その明山でも、五木ばかりは許可なしに伐採することを禁じられていた。 これは森林保護の精神より出たことは明らかで、木曾山を管理する尾張藩がそれほどこの地方から生まれて来る良い材木を重く 視 ( み )ていたのである。 取り締まりはやかましい。 すこしの怠りでもあると、木曾谷中三十三か村の 庄屋 ( しょうや )は 上松 ( あげまつ )の陣屋へ呼び出される。 吉左衛門の家は代々本陣庄屋問屋の三役を兼ねたから、そのたびに庄屋として、 背伐 ( せぎ )りの厳禁を犯した村民のため言い開きをしなければならなかった。 どうして 檜木 ( ひのき )一本でもばかにならない。 陣屋の役人の目には、どうかすると人間の 生命 ( いのち )よりも重かった。 「昔はこの木曾山の木一本伐ると、首一つなかったものだぞ。 」 陣屋の役人の 威 ( おど )し文句だ。 この役人が吟味のために村へはいり込むといううわさでも伝わると、 猪 ( いのしし )や 鹿 ( しか )どころの騒ぎでなかった。 あわてて不用の材木を焼き捨てるものがある。 囲って置いた 檜板 ( ひのきいた )を 他 ( よそ )へ移すものがある。 多分の木を盗んで置いて、板にへいだり、売りさばいたりした村の人などはことに 狼狽 ( ろうばい )する。 背伐 ( せぎ )りの吟味と言えば、村じゅう 家探 ( やさが )しの評判が立つほど厳重をきわめたものだ。 目証 ( めあかし )の 弥平 ( やへい )はもう長いこと村に滞在して、幕府時代の 卑 ( ひく )い「おかっぴき」の役目をつとめていた。 弥平の案内で、福島の役所からの役人を迎えた日のことは、一生忘れられない出来事の一つとして、まだ吉左衛門の記憶には新しくてある。 その吟味は本陣の家の門内で行なわれた。 のみならず、そんなにたくさんな 怪我人 ( けがにん )を出したことも、村の歴史としてかつて聞かなかったことだ。 前庭の上段には、福島から来た役人の年寄、用人、 書役 ( かきやく )などが居並んで、そのわきには足軽が四人も控えた。 それから村じゅうのものが呼び出された。 その 科 ( とが )によって 腰繩 ( こしなわ )手錠で宿役人の中へ預けられることになった。 もっとも、老年で七十歳以上のものは手錠を免ぜられ、すでに死亡したものは「お 叱 ( しか )り」というだけにとどめて特別な 憐憫 ( れんびん )を加えられた。 この光景をのぞき見ようとして、庭のすみの 梨 ( なし )の木のかげに隠れていたものもある。 その中に吉左衛門が 忰 ( せがれ )の半蔵もいる。 当時十八歳の半蔵は、目を据えて、役人のすることや、腰繩につながれた村の人たちのさまを見ている。 」 としかった。 六十一人もの村民が宿役人へ預けられることになったのも、その時だ。 その中の十人は金兵衛が預かった。 馬籠 ( まごめ )の宿役人や 組頭 ( くみがしら )としてこれが見ていられるものでもない。 福島の役人たちが湯舟沢村の方へ引き揚げて行った後で、「お叱り」のものの赦免せられるようにと、不幸な村民のために一同お 日待 ( ひまち )をつとめた。 その時のお札は一枚ずつ村じゅうへ配当した。 この出来事があってから 二十日 ( はつか )ばかり過ぎに、「お叱り」のものの残らず手錠を免ぜられる日がようやく来た。 福島からは三人の役人が出張してそれを伝えた。 手錠を解かれた 小前 ( こまえ )のものの 一人 ( ひとり )は、役人の前に進み出て、おずおずとした調子で言った。 「 畏 ( おそ )れながら申し上げます。 木曾は御承知のとおりな山の中でございます。 こんな田畑もすくないような土地でございます。 お役人様の前ですが、山の林にでもすがるよりほかに、わたくしどもの立つ瀬はございません。 」 新茶屋に、馬籠の宿の一番西のはずれのところに、その 路傍 ( みちばた )に 芭蕉 ( ばしょう )の 句塚 ( くづか )の建てられたころは、なんと言っても徳川の 代 ( よ )はまだ平和であった。 そういう吉左衛門はいくらか風雅の道に 嗜 ( たしな )みもあって、本陣や庄屋の仕事のかたわら、美濃派の俳諧の流れをくんだ句作にふけることもあったからで。 あれほど山里に住む 心地 ( こころもち )を引き出されたことも、吉左衛門らにはめずらしかった。 金兵衛はまた石屋に渡した仕事もほぼできたと言って、その 都度 ( つど )句碑の工事を見に吉左衛門を誘った。 二人とも 山家風 ( やまがふう )な 軽袗 ( かるさん )(地方により、もんぺいというもの)をはいて出かけたものだ。 「 親父 ( おやじ )も俳諧は好きでした。 自分の生きているうちに翁塚の一つも建てて置きたいと、口癖のようにそう言っていました。 まあ、あの親父の 供養 ( くよう )にと思って、わたしもこんなことを思い立ちましたよ。 」 そう言って見せる金兵衛の案内で、吉左衛門も工作された石のそばに寄って見た。 碑の表面には左の文字が読まれた。 送られつ送りつ 果 ( はて )は木曾の 龝 ( あき ) はせを 「これは 達者 ( たっしゃ )に書いてある。 」 「でも、この秋という字がわたしはすこし気に入らん。 禾 ( のぎ )へんがくずして書いてあって、それにつくりが 龜 ( かめ )でしょう。 」 「こういう書き方もありますサ。 」 「どうもこれでは木曾の 蠅 ( はえ )としか読めない。 」 こんな話の出たのも、 一昔前 ( ひとむかしまえ )だ。 あれは天保十四年にあたる。 いわゆる天保の改革の頃で、世の中建て直しということがしきりに触れ出される。 村方一切の諸帳簿の取り調べが始まる。 福島の役所からは公役、 普請役 ( ふしんやく )が上って来る。 尾張藩の 寺社 ( じしゃ ) 奉行 ( ぶぎょう )、または材木方の通行も続く。 馬籠の 荒町 ( あらまち )にある村社の 鳥居 ( とりい )のために 檜木 ( ひのき )を 背伐 ( せぎ )りしたと言って、その始末書を取られるような細かい干渉がやって来る。 村民の使用する 煙草 ( たばこ ) 入 ( い )れ、紙入れから、女のかんざしまで、およそ銀という銀を用いた 類 ( たぐい )のものは、すべて引き上げられ、封印をつけられ、目方まで改められて、 庄屋 ( しょうや )預けということになる。 それほど政治はこまかくなって、句碑一つもうっかり建てられないような時世ではあったが、まだまだそれでも社会にゆとりがあった。 翁塚の供養はその年の四月のはじめに行なわれた。 あいにくと曇った日で、 八 ( や )つ 半時 ( はんどき )より雨も降り出した。 招きを受けた客は、おもに美濃の連中で、 手土産 ( てみやげ )も 田舎 ( いなか )らしく、扇子に 羊羹 ( ようかん )を添えて来るもの、 生椎茸 ( なまじいたけ )をさげて来るもの、先代の好きな菓子を仏前へと言ってわざわざ玉あられ一箱用意して来るもの、それらの人たちが金兵衛方へ集まって見た時は、国も二つ、言葉の 訛 ( なま )りもまた二つに入れまじった。 その中には、峠一つ降りたところに住む隣宿 落合 ( おちあい )の宗匠、 崇佐坊 ( すさぼう )も招かれて来た。 この人の世話で、美濃派の俳席らしい 支考 ( しこう )の『 三 ( さんちょう )の図』なぞの壁にかけられたところで、やがて連中の 付合 ( つけあい )があった。 主人役の金兵衛は、自分で五十韻、ないし百韻の仲間入りはできないまでも、 「これで、さぞ 親父 ( おやじ )もよろこびましょうよ。 」 と言って、弁当に酒さかななど 重詰 ( じゅうづめ )にして出し、招いた人たちの間を 斡旋 ( あっせん )した。 その日は新たにできた塚のもとに一同集まって、そこで吟声供養を済ますはずであった。 ところが、記念の一巻を巻き終わるのに日暮れ方までかかって、吟声は金兵衛の宅で済ました。 供養の式だけを新茶屋の方で行なった。 昔気質 ( むかしかたぎ )の金兵衛は亡父の 形見 ( かたみ )だと言って、その日の宗匠 崇佐坊 ( すさぼう )へ 茶縞 ( ちゃじま )の綿入れ羽織なぞを贈るために、わざわざ自分で落合まで出かけて行く人である。 吉左衛門は金兵衛に言った。 「やっぱり君はわたしのよい友だちだ。 」 暑い夏が来た。 旧暦五月の日のあたった街道を踏んで、 伊那 ( いな )の方面まで繭買いにと出かける中津川の商人も通る。 その草いきれのするあつい空気の中で、上り下りの諸大名の通行もある。 月の末には毎年福島の方に立つ 毛付 ( けづ )け(馬市)も近づき、各村の 駒改 ( こまあらた )めということも新たに開始された。 当時幕府に勢力のある 彦根 ( ひこね )の藩主( 井伊 ( いい ) 掃部頭 ( かもんのかみ ))も、久しぶりの帰国と見え、 須原宿 ( すはらじゅく )泊まり、 妻籠宿 ( つまごしゅく ) 昼食 ( ちゅうじき )、馬籠はお 小休 ( こやす )みで、木曾路を通った。 六月にはいって見ると、うち続いた快晴で、日に増し照りも強く、村じゅうで 雨乞 ( あまご )いでも始めなければならないほどの激しい暑気になった。 荒町の部落ではすでにそれを始めた。 ちょうど、峠の上の方から馬をひいて街道を降りて来る村の 小前 ( こまえ )のものがある。 福島の馬市からの 戻 ( もど )りと見えて、青毛の親馬のほかに、当歳らしい一匹の子馬をもそのあとに連れている。 気の短い問屋の 九太夫 ( くだゆう )がそれを見つけて、どなった。 「おい、どこへ行っていたんだい。 」 「馬買いよなし。 」 「この 旱 ( ひで )りを知らんのか。 お前の留守に、 田圃 ( たんぼ )は 乾 ( かわ )いてしまう。 荒町あたりじゃ 梵天山 ( ぼんでんやま )へ登って、雨乞いを始めている。 氏神 ( うじがみ )さまへ行ってごらん、お 千度 ( せんど ) 参 ( まい )りの騒ぎだ。 」 「そう言われると、 一言 ( いちごん )もない。 」 「さあ、このお天気続きでは、 伊勢木 ( いせぎ )を出さずに済むまいぞ。 」 伊勢木とは、伊勢太神宮へ祈願をこめるための 神木 ( しんぼく )をさす。 こうした深い山の中に古くから行なわれる雨乞いの習慣である。 よくよくの年でなければこの伊勢木を引き出すということもなかった。 六月の六日、村民一同は 鎌止 ( かまど )めを申し合わせ、荒町にある氏神の境内に集まった。 本陣、問屋をはじめ、宿役人から 組頭 ( くみがしら )まで残らずそこに参集して、氏神境内の 宮林 ( みやばやし )から 樅 ( もみ )の木一本を 元伐 ( もとぎ )りにする相談をした。 「一本じゃ、伊勢木も足りまい。 」 と吉左衛門が言い出すと、金兵衛はすかさず答えた。 「や、そいつはわたしに寄付させてもらいましょう。 ちょうどよい 樅 ( もみ )が一本、 吾家 ( うち )の林にもありますから。 」 元伐 ( もとぎ )りにした二本の樅には 注連 ( しめ )なぞが掛けられて、その前で 禰宜 ( ねぎ )の 祈祷 ( きとう )があった。 この清浄な神木が日暮れ方になってようやく鳥居の前に引き出されると、左右に分かれた村民は声を揚げ、太い綱でそれを引き合いはじめた。 「よいよ。 よいよ。 」 互いに競い合う村の人たちの声は、荒町のはずれから馬籠の中央にある 高札場 ( こうさつば )あたりまで響けた。 こうなると、庄屋としての吉左衛門も骨が折れる。 金兵衛は自分から進んで神木の樅を寄付した関係もあり、夕飯のしたくもそこそこにまた馬籠の町内のものを引き連れて行って見ると、伊勢木はずっと新茶屋の方まで荒町の百姓の力に引かれて行く。 それを取り戻そうとして、 三 ( み )つや 表 ( おもて )から 畳石 ( たたみいし )の辺で双方のもみ合いが始まる。 とうとうその晩は伊勢木を荒町に止めて置いて、一同疲れて家に帰ったころは一番 鶏 ( どり )が鳴いた。 「どうもことしは年回りがよくない。 」 「そう言えば、正月のはじめから不思議なこともありましたよ。 正月の三日の晩です、この山の東の方から光ったものが出て、それが 西南 ( にしみなみ )の方角へ飛んだといいます。 見たものは皆驚いたそうですよ。 馬籠 ( まごめ )ばかりじゃない、 妻籠 ( つまご )でも、山口でも、中津川でも見たものがある。 」 吉左衛門と金兵衛とは 二人 ( ふたり )でこんな話をして、伊勢木の始末をするために、村民の集まっているところへ急いだ。 山里に住むものは、すこし変わったことでも見たり聞いたりすると、すぐそれを何かの暗示に結びつけた。 三日がかりで村じゅうのものが引き合った伊勢木を落合川の方へ流したあとになっても、まだ 御利生 ( ごりしょう )は見えなかった。 峠のものは 熊野 ( くまの ) 大権現 ( だいごんげん )に、荒町のものは 愛宕山 ( あたごやま )に、いずれも百八の 松明 ( たいまつ )をとぼして、思い思いの祈願をこめる。 宿内では二組に分かれてのお 日待 ( ひまち )も始まる。 雨乞いの 祈祷 ( きとう )、それに水の拝借と言って、村からは 諏訪 ( すわ ) 大社 ( たいしゃ )へ二人の代参までも送った。 神前へのお 初穂料 ( はつほりょう )として金百 疋 ( ぴき )、道中の路用として 一人 ( ひとり )につき一 分 ( ぶ )二 朱 ( しゅ )ずつ、百六十軒の村じゅうのものが十九文ずつ出し合ってそれを分担した。 東海道 浦賀 ( うらが )の 宿 ( しゅく )、 久里 ( くり )が 浜 ( はま )の沖合いに、黒船のおびただしく現われたといううわさが伝わって来たのも、村ではこの雨乞いの最中である。 問屋の九太夫がまずそれを 彦根 ( ひこね )の 早飛脚 ( はやびきゃく )から聞きつけて、吉左衛門にも告げ、金兵衛にも告げた。 その黒船の現われたため、にわかに彦根の藩主は幕府から現場の 詰役 ( つめやく )を命ぜられたとのこと。 嘉永 ( かえい )六年六月十日の晩で、ちょうど諏訪大社からの二人の代参が村をさして大急ぎに帰って来たころは、その 乾 ( かわ )ききった夜の空気の中を彦根の使者が西へ急いだ。 江戸からの 便 ( たよ )りは 中仙道 ( なかせんどう )を経て、この山の中へ届くまでに、早飛脚でも相応日数はかかる。 黒船とか、 唐人船 ( とうじんぶね )とかがおびただしくあの沖合いにあらわれたということ以外に、くわしいことはだれにもわからない。 ましてアメリカの水師提督ペリイが四 艘 ( そう )の軍艦を率いて、初めて日本に到着したなぞとは、知りようもない。 「江戸は大変だということですよ。 」 金兵衛はただそれだけを吉左衛門の耳にささやいた。 [#改丁] 七月にはいって、 吉左衛門 ( きちざえもん )は 木曾福島 ( きそふくしま )の用事を済まして出張先から引き取って来た。 その用向きは、前の年の秋に、福島の勘定所から依頼のあった 仕法立 ( しほうだ )ての件で、 馬籠 ( まごめ )の 宿 ( しゅく )としては金百両の調達を引き請け、暮れに五十両の 無尽 ( むじん )を取り立ててその金は福島の方へ回し、二番口も敷金にして、首尾よく無尽も終会になったところで、都合全部の上納を終わったことを届けて置いてあった。 今度、福島からその 挨拶 ( あいさつ )があったのだ。 金兵衛 ( きんべえ )は待ち兼ね顔に、無事で帰って来たこの吉左衛門を自分の家の 店座敷 ( みせざしき )に迎えた。 金兵衛の家は 伏見屋 ( ふしみや )と言って、造り酒屋をしている。 街道に添うた軒先に 杉 ( すぎ )の葉の 円 ( まる )く 束 ( たば )にしたのを掛け、それを清酒の看板に代えてあるようなところだ。 店座敷も広い。 その時、吉左衛門は福島から受け取って来たものを 風呂敷 ( ふろしき ) 包 ( づつ )みの中から取り出して、 「さあ、これだ。 」 と金兵衛の前に置いた。 村の宿役人仲間へ料紙一束ずつ、無尽の加入者一同への 酒肴料 ( しゅこうりょう )、まだそのほかに、 二巾 ( ふたはば )の 縮緬 ( ちりめん )の風呂敷が二枚あった。 それは金兵衛と 桝田屋 ( ますだや )の 儀助 ( ぎすけ )の 二人 ( ふたり )が特に多くの金高を引き受けたというので、その挨拶の意味のものだ。 吉左衛門の報告はそれだけにとどまらなかった。 最後に、一通の 書付 ( かきつけ )もそこへ取り出して見せた。 三 ( みつ ) 逸作 ( いつさく ) 石 ( いし ) 団之丞 ( だんのじょう ) 荻 ( おぎ ) 丈左衛門 ( じょうざえもん ) 白 ( しろ ) 新五左衛門 ( しんござえもん ) 青山吉左衛門殿 「ホ。 苗字帯刀御免とありますね。 」 「まあ、そんなことが書いてある。 」 「吉左衛門さん一代限りともありますね。 なんにしても、これは名誉だ。 」 と金兵衛が言うと、吉左衛門はすこし 苦 ( にが )い顔をして、 「これが、せめて十年前だとねえ。 」 ともかくも吉左衛門は役目を果たしたが、同時に勘定所の役人たちがいやな 臭気 ( におい )をもかいで帰って来た。 苗字帯刀を勘定所のやり繰り算段に替えられることは、吉左衛門としてあまりいい心持ちはしなかった。 「金兵衛さん、君には察してもらえるでしょうが、 庄屋 ( しょうや )のつとめも 辛 ( つら )いものだと思って来ましたよ。 」 吉左衛門の述懐だ。 その時、 上 ( かみ )の伏見屋の 仙十郎 ( せんじゅうろう )が顔を出したので、しばらく 二人 ( ふたり )はこんな話を打ち切った。 仙十郎は金兵衛の仕事を手伝わされているので、ちょっと用事の打ち合わせに来た。 金兵衛を 叔父 ( おじ )と呼び、吉左衛門を義理ある父としているこの仙十郎は伏見家から分家して、別に上の伏見屋という家を持っている。 年も半蔵より三つほど上で、腰にした 煙草入 ( たばこい )れの 根付 ( ねつけ )にまで新しい時の 流行 ( はやり )を見せたような若者だ。 「仙十郎、お前も茶でも飲んで行かないか。 」 と金兵衛が言ったが、仙十郎は吉左衛門の前に出ると妙に改まってしまって、茶も飲まなかった。 何か気づまりな、じっとしていられないようなふうで、やがてそこを出て行った。 」 若者への関心にかけては、金兵衛とても吉左衛門に劣らない。 アメリカのペリイ来訪以来のあわただしさはおろか、それ以前からの周囲の空気の中にあるものは、若者の目や耳から隠したいことばかりであった。 殺人、盗賊、 駈落 ( かけおち )、男女の情死、諸役人の腐敗 沙汰 ( ざた )なぞは、この街道でめずらしいことではなくなった。 この二人に言わせると、日ごろ上に立つ人たちからやかましく督促せらるることは、街道のよい整理である。 言葉をかえて言えば、封建社会の「秩序」である。 しかしこの「秩序」を乱そうとするものも、そういう上に立つ人たちからであった。 博打 ( ばくち )はもってのほかだという。 しかし毎年の 毛付 ( けづ )け(馬市)を 賭博場 ( とばくじょう )に公開して、土地の繁華を計っているのも福島の役人であった。 袖 ( そで )の下はもってのほかだという。 しかし 御肴代 ( おさかなだい )もしくは 御祝儀 ( ごしゅうぎ )何両かの献上金を納めさせることなしに、かつてこの街道を通行したためしのないのも日光への例幣使であった。 人殺しはもってのほかだという。 しかし 八沢 ( やさわ )の長坂の 路傍 ( みちばた )にあたるところで口論の末から 土佐 ( とさ )の 家中 ( かちゅう )の一人を殺害し、その仲裁にはいった一人の親指を切り落とし、この街道で 刃傷 ( にんじょう )の手本を示したのも 小池 ( こいけ ) 伊勢 ( いせ )の家中であった。 女は 手形 ( てがた )なしには関所をも通さないという。 しかし木曾路を通るごとに女の乗り物を用意させ、見る人が見ればそれが正式な夫人のものでないのも 彦根 ( ひこね )の殿様であった。 「あゝ。 」と吉左衛門は嘆息して、「世の中はどうなって行くかと思うようだ。 あの御勘定所のお役人なぞがお殿様からのお言葉だなんて、献金の世話を頼みに出張して来て、 吾家 ( うち )の床柱の前にでもすわり込まれると、わたしはまたかと思う。 しかし、金兵衛さん、そのお役人の行ってしまったあとでは、わたしはどんな無理なことでも聞かなくちゃならないような気がする……」 東海道浦賀の方に黒船の着いたといううわさを耳にした時、最初吉左衛門や金兵衛はそれほどにも思わなかった。 江戸は大変だということであっても、そんな騒ぎは今にやむだろうぐらいに二人とも考えていた。 江戸から八十三里の余も隔たった木曾の山の中に住んで、鎖国以来の長い眠りを眠りつづけて来たものは、アメリカのような異国の存在すら初めて知るくらいの時だ。 この街道に伝わるうわさの多くは、 諺 ( ことわざ )にもあるようにころがるたびに大きな 塊 ( かたまり )になる 雪達磨 ( ゆきだるま )に似ている。 六月十日の晩に、彦根の早飛脚が残して置いて行ったうわさもそれで、十四日には黒船八十六 艘 ( そう )もの信じがたいような大きな話になって伝わって来た。 寛永 ( かんえい )十年以来、日本国の一切の船は海の外に出ることを禁じられ、五百石以上の大船を造ることも禁じられ、オランダ、シナ、朝鮮をのぞくのほかは外国船の来航をも堅く禁じてある。 その国のおきてを無視して、故意にもそれを破ろうとするものがまっしぐらにあの江戸湾を望んで直進して来た。 当時幕府が船改めの番所は 下田 ( しもだ )の港から浦賀の方に移してある。 そんな番所の所在地まで知って、あの 唐人船 ( とうじんぶね )がやって来たことすら、すでに不思議の一つであると言われた。 種々な流言が伝わって来た。 宿役人としての吉左衛門らはそんな流言からも村民をまもらねばならなかった。 やがて通行の前触れだ。 間もなくこの街道では江戸出府の 尾張 ( おわり )の家中を迎えた。 尾張藩主(徳川 慶勝 ( よしかつ ))の 名代 ( みょうだい )、 成瀬 ( なるせ ) 隼人之正 ( はやとのしょう )、その家中のおびただしい通行のあとには、かねて待ち受けていた彦根の家中も追い追いやって来る。 公儀の 御茶壺 ( おちゃつぼ )同様にとの特別扱いのお触れがあって、名古屋城からの 具足 ( ぐそく ) 長持 ( ながもち )が 十棹 ( とさお )もそのあとから続いた。 それらの警護の武士が 美濃路 ( みのじ )から借りて連れて来た人足だけでも、百五十人に上った。 継立 ( つぎた )ても難渋であった。 馬籠の宿場としては、山口村からの二十人の加勢しか得られなかった。 例の黒船はやがて残らず帰って行ったとやらで、江戸表へ出張の人たちは途中から引き返して来るものがある。 ある朝 馬籠 ( まごめ )から送り出した長持は隣宿の 妻籠 ( つまご )で行き止まり、翌朝中津川から来た長持は馬籠の本陣の前で立ち往生する。 荷物はそれぞれ問屋預けということになったが、人馬継立ての 見分 ( けんぶん )として 奉行 ( ぶぎょう )まで出張して来るほど街道はごたごたした。 狼狽 ( ろうばい )そのもののようなこの混雑が静まったのは、半月ほど前にあたる。 浦賀へ押し寄せて来た唐人船も行くえ知れずになって、まずまず 恐悦 ( きょうえつ )だ。 そんな 報知 ( しらせ )が、江戸方面からは追い追いと伝わって来たころだ。 吉左衛門は金兵衛を相手に、伏見屋の店座敷で話し込んでいると、ちょうどそこへ警護の武士を先に立てた尾張の家中の一隊が西から街道を進んで来た。 吉左衛門と金兵衛とは 談話 ( はなし )半ばに伏見屋を出て、この一隊を迎えるためにほかの宿役人らとも一緒になった。 尾張の家中は江戸の方へ 大筒 ( おおづつ )の鉄砲を運ぶ途中で、馬籠の宿の片側に来て足を休めて行くところであった。 本陣や問屋の前あたりは 檜木笠 ( ひのきがさ )や六尺棒なぞで 埋 ( うず )められた。 騎馬から降りて休息する武士もあった。 肌 ( はだ )脱ぎになって背中に流れる汗をふく人足たちもあった。 よくあの重いものをかつぎ上げて、 美濃境 ( みのざかい )の 十曲峠 ( じっきょくとうげ )を越えることができたと、人々はその話で持ちきった。 吉左衛門はじめ、金兵衛らはこの労苦をねぎらい、問屋の九太夫はまた 桝田屋 ( ますだや )の儀助らと共にその間を 奔 ( はし )り回って、隣宿妻籠までの継立てのことを 斡旋 ( あっせん )した。 村の人たちは皆、街道に出て見た。 その中に半蔵もいた。 彼は父の吉左衛門に似て 背 ( せい )も高く、青々とした 月代 ( さかやき )も男らしく目につく若者である。 ちょうど暑さの見舞いに村へ来ていた中津川の医者と連れだって、通行の邪魔にならないところに立った。 この医者が 宮川 ( みやがわ ) 寛斎 ( かんさい )だ。 半蔵の 旧 ( ふる )い師匠だ。 その時、半蔵は無言。 寛斎も無言で、ただ医者らしく頭を 円 ( まる )めた寛斎の胸のあたりに、手にした扇だけがわずかに動いていた。 「半蔵さん。 」 上の伏見屋の仙十郎もそこへ来て、考え深い目つきをしている半蔵のそばに立った。 目方百十五、六貫ばかりの 大筒 ( おおづつ )の鉄砲、この人足二十二人がかり、それに七人がかりから十人がかりまでの大筒五 挺 ( ちょう )、都合六挺が、やがて村の人々の目の前を動いて行った。 こんなに諸藩から江戸の 邸 ( やしき )へ向けて大砲を運ぶことも、その日までなかったことだ。 間もなく尾張の家中衆は見えなかった。 しかし、不思議な沈黙が残った。 その沈黙は、何が江戸の方に起こっているか知れないような、そんな心持ちを深い山の中にいるものに起こさせた。 六月以来 頻繁 ( ひんぱん )な諸大名の通行で、江戸へ向けてこの木曾街道を経由するものに、黒船騒ぎに関係のないものはなかったからで。 あるものは江戸湾一帯の海岸の防備、あるものは江戸城下の警固のためであったからで。 金兵衛は吉左衛門の 袖 ( そで )を引いて言った。 「いや、お帰り早々、いろいろお骨折りで。 まあ、おかげでお 継立 ( つぎた )ても済みました。 今夜は御苦労呼びというほどでもありませんが、お玉のやつにしたくさせて置きます。 あとでおいでを願いましょう。 そのかわり、吉左衛門さん、ごちそうは何もありませんよ。 」 酒のさかな。 胡瓜 ( きゅうり )もみに 青紫蘇 ( あおじそ )。 到来物の 畳 ( たた )みいわし。 それに 茄子 ( なす )の 新漬 ( しんづ )け。 飯の時にとろろ 汁 ( じる )。 すべてお玉の手料理の物で、金兵衛は夕飯に吉左衛門を招いた。 店座敷も暑苦しいからと、二階を明けひろげて、お玉はそこへ 二人 ( ふたり )の席を設けた。 山家風 ( やまがふう )な 風呂 ( ふろ )の用意もお玉の心づくしであった。 招かれて行った吉左衛門は、一風呂よばれたあとのさっぱりとした心持ちで、広い炉ばたの片すみから二階への 箱梯子 ( はこばしご )を登った。 黒光りのするほどよく 拭 ( ふ )き込んであるその箱梯子も伏見屋らしいものだ。 西向きの二階の 部屋 ( へや )には、金兵衛が先代の遺物と見えて、美濃派の俳人らの寄せ書きが 灰汁抜 ( あくぬ )けのした表装にして壁に掛けてある。 八人のものが集まって馬籠風景の八つの 眺 ( なが )めを思い思いの句と画の中に取り入れたものである。 この俳味のある掛け物の前に行って立つことも、吉左衛門をよろこばせた。 お玉は 膳 ( ぜん )を運んで来た。 ほんの有り合わせの手料理ながら、青みのある新しい野菜で膳の上を涼しく見せてある。 やがて酒もはじまった。 「吉左衛門さん、何もありませんが召し上がってくださいな。 」とお玉が言った。 「 吾家 ( うち )の 鶴松 ( つるまつ )も出まして、お世話さまでございます。 」 「さあ、一杯やってください。 」と言って、金兵衛はお玉を顧みて、「吉左衛門さんはお前、 苗字 ( みょうじ )帯刀御免ということになったんだよ。 今までの吉左衛門さんとは違うよ。 」 「それはおめでとうございます。 」 「いえ。 」と吉左衛門は頭をかいて、「苗字帯刀もこう安売りの時世になって来ては、それほどありがたくもありません。 」 「でも、悪い気持ちはしないでしょう。 」と金兵衛は言った。 「二本さして、青山吉左衛門で通る。 どこへ出ても、 大威張 ( おおいば )りだ。 」 「まあ、そう言わないでくれたまえ。 それよりか、 盃 ( さかずき )でもいただこうじゃありませんか。 」 吉左衛門も酒はいける口であり、それに勧め 上手 ( じょうず )なお玉のお 酌 ( しゃく )で、金兵衛とさしむかいに盃を重ねた。 その二階は、かつて 翁塚 ( おきなづか )の供養のあったおりに、落合の宗匠 崇佐坊 ( すさぼう )まで集まって、金兵衛が先代の記念のために俳席を開いたところだ。 そう言えば、吉左衛門や金兵衛の 旧 ( むかし )なじみでもはやこの世にいない人も多い。 馬籠の生まれで水墨の山水や花果などを得意にした画家の 蘭渓 ( らんけい )もその 一人 ( ひとり )だ。 あの蘭渓も、黒船騒ぎなぞは知らずに 亡 ( な )くなった。 「お玉さんの前ですが。 」と吉左衛門は言った。 「こうして 御酒 ( ごしゅ )でもいただくと、実に一切を忘れますよ。 わたしはよく思い出す。 」と金兵衛も思い出したように、「わたしも今それを言おうと思っていたところさ。 」 アトリ三十羽に茶漬け三杯。 あれは 嘉永 ( かえい )二年にあたる。 山里では小鳥のおびただしく 捕 ( と )れた年で、ことに 大平村 ( おおだいらむら )の方では毎日三千羽ずつものアトリが驚くほど鳥網にかかると言われ、この馬籠の宿までたびたび売りに来るものがあった。 小鳥の名所として土地のものが誇る木曾の山の中でも、あんな年はめったにあるものでなかった。 仲間のものが集まって、一興を催すことにしたのもその時だ。 そのアトリ三十羽に、茶漬け三杯食えば、 褒美 ( ほうび )として別に三十羽もらえる。 もしまた、その三十羽と茶漬け三杯食えなかった時は、あべこべに六十羽差し出さなければならないという約束だ。 場処は 蓬莱屋 ( ほうらいや )。 時刻は七つ 時 ( どき )。 食い手は吉左衛門と金兵衛の二人。 食わせる方のものは 組頭 ( くみがしら ) 笹屋 ( ささや )の 庄兵衛 ( しょうべえ )と 小笹屋 ( こざさや )の勝七。 それには勝負を見届けるものもなくてはならぬ。 蓬莱屋の新七がその審判官を引き受けた。 さて、食った。 約束のとおり、一人で三十羽、茶漬け三杯、残らず食い終わって、褒美の三十羽ずつは吉左衛門と金兵衛とでもらった。 アトリは形もちいさく、骨も柔らかく、 鶫 ( つぐみ )のような小鳥とはわけが違う。 それでもなかなか食いではあったが、二人とも腹もはらないで、その足で会所の店座敷へ押し掛けてたくさん茶を飲んだ。 その時の二人の年齢もまた忘れられずにある。 吉左衛門は五十一歳、金兵衛は五十三歳を迎えたころであった。 二人はそれほど盛んな食欲を競い合ったものだ。 「あんなおもしろいことはなかった。 」 「いや、大笑いにも、なんにも。 あんなおもしろいことは前代 未聞 ( みもん )さ。 隣人同志でもあり、宿役人同志でもある二人の友だちは、しばらく街道から離れる思いで、尽きない 夜咄 ( よばなし )に、とろろ汁に、夏の夜のふけやすいことも忘れていた。 馬籠 ( まごめ )の 宿 ( しゅく )で初めて酒を造ったのは、伏見屋でなくて、 桝田屋 ( ますだや )であった。 そこの初代と二代目の主人、 惣右衛門 ( そうえもん )親子のものであった。 桝田屋の親子が協力して水の量目を計ったところ、 下坂川 ( おりさかがわ )で四百六十目、桝田屋の井戸で四百八十目、伏見屋の井戸で四百九十目あったという。 その中で下坂川の水をくんで、惣右衛門親子は初めて造り酒の試みに成功した。 馬籠の水でも良い酒のできることを実際に示したのも親子二人のものであった。 それまで馬籠には造り酒屋というものはなかった。 この惣右衛門親子は、村の百姓の中から身を起こして無遠慮に頭を持ち上げた人たちであるばかりでなく、後の金兵衛らのためにも 好 ( よ )かれ 悪 ( あ )しかれ一つの進路を切り開いた最初の人たちである。 桝田屋の初代が伏見屋から一軒置いて上隣りの街道に添うた位置に大きな家を新築したのは、宝暦七年の昔で、そのころに初代が六十五歳、二代目が二十五歳であった。 親代々からの百姓であった初代惣右衛門が本家の梅屋から分かれて、別に自分の道を踏み出したのは、それよりさらに四十年も以前のことにあたる。 馬籠は 田畠 ( たはた )の間にすら大きくあらわれた 石塊 ( いしころ )を見るような地方で、古くから生活も容易でないとされた山村である。 初代惣右衛門はこの村に生まれて、十八歳の時から親の 名跡 ( みょうせき )を継ぎ、岩石の間をもいとわず百姓の仕事を励んだ。 本家は代々の年寄役でもあったので、 若輩 ( じゃくはい )ながらにその役をも勤めた。 旅人相手の街道に目をつけて、 旅籠屋 ( はたごや )の新築を思い立ったのは、この初代が二十八、九のころにあたる。 そのころの馬籠は、一 分 ( ぶ )か二分の金を借りるにも、隣宿の 妻籠 ( つまご )か美濃の中津川まで出なければならなかった。 師走 ( しわす )も押し詰まったころになると、中津川の 備前屋 ( びぜんや )の 親仁 ( おやじ )が十日あまりも馬籠へ来て泊まっていて、町中へ 小貸 ( こが )しなどした。 その金でようやく村のものが年を越したくらいの土地 柄 ( がら )であった。 四人の子供を控えた初代惣右衛門夫婦の小歴史は、馬籠のような困窮な村にあって激しい生活苦とたたかった人たちの歴史である。 百姓の仕事とする 朝草 ( あさくさ )も、春先青草を見かける時分から九月十月の霜をつかむまで毎朝二度ずつは刈り、昼は人並みに会所の役を勤め、晩は宿泊の旅人を第一にして、その間に少しずつの米商いもした。 かみさんはまたかみさんで、内職に豆腐屋をして、三、四人の幼いものを控えながら夜通し 石臼 ( いしうす )をひいた。 新宅の 旅籠屋 ( はたごや )もできあがるころは、 普請 ( ふしん )のおりに出た木の 片 ( きれ )を 燈 ( とぼ )して、それを 油火 ( あぶらび )に替え、夜番の 行燈 ( あんどん )を軒先へかかげるにも毎朝夜明け前に 下掃除 ( したそうじ )を済まし、同じ布で 戸障子 ( としょうじ )の敷居などを 拭 ( ふ )いたのも、そのかみさんだ。 貧しさにいる夫婦二人のものは、自分の子供らを路頭に立たせまいとの願いから、夜一夜ろくろく 安気 ( あんき )に眠ったこともなかったほど働いた。 そのころ、本家の梅屋では隣村湯舟沢から来る人足たちの宿をしていた。 その縁故から、初代夫婦はなじみの人足に頼んで、春先の 食米 ( くいまい )三斗ずつ内証で借りうけ、 秋米 ( あきまい )で四斗ずつ返すことにしていた。 これは田地を仕付けるにも、 旅籠屋 ( はたごや )片手間では芝草の用意もなりかねるところから、麦で少しずつ刈り造ることに生活の方法を改めたからで。 初代惣右衛門はこんなところから出発した。 旅籠屋の営業と、そして骨の折れる耕作と。 もともと馬籠にはほかによい旅籠屋もなかったから、新宅と言って泊まる旅人も多く、追い追いと常得意の客もつき、 小女 ( こおんな )まで置き、その奉公人の給金も三分がものは翌年は一両に増してやれるほどになった。 飯米 ( はんまい )一升買いの時代のあとには、一俵買いの時代も来、後には馬で中津川から呼ぶ時代も来た。 新宅桝田屋の主人はもうただの百姓でもなかった。 旅籠屋営業のほかに少しずつ商売などもする町人であった。 二代目惣右衛門はこの夫婦の末子として生まれた。 親から 仕来 ( しきた )った百姓は百姓として、 惣領 ( そうりょう )にはまだ家の仕事を継ぐ特権もある。 次男三男からはそれも望めなかった。 十三、四のころから草刈り奉公に出て、末は 雲助 ( くもすけ )にでもなるか。 末子と生まれたものが成人しても、馬追いか 駕籠 ( かご )かきにきまったものとされたほどの時代である。 そういう中で、二代目惣右衛門は親のそばにいて、物心づくころから草刈り奉公にも出されなかったというだけでも、親惣右衛門を徳とした。 この二代目がまた、親の仕事を幾倍かにひろげた。 人も知るように、当時の諸大名が農民から収めた 年貢米 ( ねんぐまい )の多くは、大坂の方に輸送されて、金銀に替えられた。 大坂は米取引の一大市場であった。 次第に商法も手広くやるころの二代目惣右衛門は、大坂の米相場にも無関心ではなかった人である。 彼はまた、優に千両の無尽にも応じたが、それほど実力を積み蓄えた 分限者 ( ぶげんしゃ )は木曾谷中にも彼のほかにないと言われるようになった。 彼は貧困を征服しようとした親惣右衛門の心を飽くまでも持ちつづけた。 誇るべき伝統もなく、そうかと言って 煩 ( わずら )わされやすい過去もなかった。 腕一本で、無造作に進んだ。 天明 ( てんめい )六年は二代目惣右衛門が五十三歳を迎えたころである。 そのころの彼は、大きな造り酒屋の店にすわって、自分の子に酒の一番火入れなどをさせながら、初代在世のころからの八十年にわたる過去を思い出すような人であった。 彼は親先祖から譲られた家督財産その他一切のものを天からの預かり物と考えよと自分の子に 誨 ( おし )えた。 彼は金銭を日本の宝の一つと考えよと 誨 ( おし )えた。 それをみだりにわが物と心得て、私用に費やそうものなら、いつか「 天道 ( てんどう )」に 泄 ( も )れ聞こえる時が来るとも誨えた。 彼は先代惣右衛門の出発点を忘れそうな子孫の末を心配しながら死んだ。 伏見屋の金兵衛は、この惣右衛門親子の 衣鉢 ( いはつ )を継いだのである。 そういう金兵衛もまた持ち前の快活さで、家では造り酒屋のほかに質屋を兼ね、馬も持ち、田も造り、時には米の売買にもたずさわり、美濃の 久々里 ( くくり )あたりの旗本にまで金を貸した。 この学問のある 田舎 ( いなか )医者に言わせると、馬籠は 国境 ( くにざかい )だ、おそらく町人 気質 ( かたぎ )の金兵衛にも、あの惣右衛門親子にも、商才に富む美濃人の血が 混 ( まじ )り合っているのだろう、そこへ行くと吉左衛門は多分に 信濃 ( しなの )の百姓であると。 吉左衛門が青山の家は馬籠の裏山にある本陣林のように古い。 木曾谷の西のはずれに初めて馬籠の村を開拓したのも、 相州三浦 ( そうしゅうみうら )の方から移って来た青山 監物 ( けんもつ )の第二子であった。 ここに一宇を 建立 ( こんりゅう )して、 万福寺 ( まんぷくじ )と名づけたのも、これまた同じ人であった。 万福寺殿昌屋常久禅定門 ( まんぷくじでんしょうおくじょうきゅうぜんじょうもん )、俗名青山次郎左衛門、隠居しての名を 道斎 ( どうさい )と呼んだ人が、自分で建立した寺の墓地に眠ったのは、 天正 ( てんしょう )十二年の昔にあたる。 「金兵衛さんの家と、おれの家とは違う。 」 と吉左衛門が自分の 忰 ( せがれ )に言って見せるのも、その家族の歴史をさす。 そういう吉左衛門が青山の家を継いだころは、十六代も連なり続いて来た木曾谷での最も古い家族の一つであった。 遠い馬籠の昔はくわしく知るよしもない。 青山家の先祖が木曾にはいったのは、木曾 義昌 ( よしまさ )の時代で、おそらく福島の山村氏よりも古い。 その後この地方の 郷士 ( ごうし )として馬籠その他数か村の代官を勤めたらしい。 慶長年代のころ、 石田 ( いしだ ) 三成 ( みつなり )が西国の諸侯をかたらって濃州関ヶ原へ出陣のおり、徳川台徳院は 中仙道 ( なかせんどう )を登って関ヶ原の方へ向かった。 その時の 御先立 ( おさきだち )には、山村 甚兵衛 ( じんべえ )、 馬場 ( ばば ) 半左衛門 ( はんざえもん )、 千村 ( ちむら ) 平右衛門 ( へいえもん )などの諸士を数える。 馬籠の青山 庄三郎 ( しょうざぶろう )、またの名 重長 ( しげなが )(青山二代目)もまた、徳川 方 ( がた )に味方し、馬籠の 砦 ( とりで )にこもって、 犬山勢 ( いぬやまぜい )を防いだ。 当時犬山城の石川備前は木曾へ 討手 ( うって )を差し向けたが、木曾の郷士らが皆徳川方の味方をすると聞いて、激しくも戦わないで引き退いた。 その後、青山の家では帰農して、代々本陣、庄屋、問屋の三役を兼ねるようになったのも、当時の戦功によるものであるという。 青山家の古い屋敷は、もと石屋の坂をおりた辺にあった。 由緒 ( ゆいしょ )のある武具馬具なぞは、寛永年代の馬籠の大火に焼けて、二本の 鎗 ( やり )だけが残った。 その屋敷跡には代官屋敷の地名も残ったが、尾張藩への遠慮から、 享保 ( きょうほう )九年の検地の時以来、代官屋敷の 字 ( あざ )を石屋に改めたともいう。 その辺は岩石の間で、付近に大きな岩があったからで。 子供の時分の半蔵を前にすわらせて置いて、吉左衛門はよくこんな古い話をして聞かせた。 彼はまた、酒の上のきげんのよい心持ちなぞから、表玄関の 長押 ( なげし )の上に掛けてある古い二本の鎗の下へ 小忰 ( こせがれ )を連れて行って、 「御覧、御先祖さまが見ているぞ。 いたずらするとこわいぞ。 」 と戯れた。 隣家の伏見屋なぞにない古い伝統が 年若 ( としわか )な半蔵の頭に深く刻みつけられたのは、幼いころから聞いたこの父の 炬燵話 ( こたつばなし )からで。 自分の忰に先祖のことでも語り聞かせるとなると、吉左衛門の目はまた特別に輝いたものだ。 「代官造りという言葉は、地名で残っている。 吾家 ( うち )の先祖が代官を勤めた時分に、田地を手造りにした場所だというので、それで代官造りさ。 今の 町田 ( まちだ )がそれさ。 その時分には、毎年五月に村じゅうの百姓を残らず集めて植え付けをした。 その日に 吾家 ( うち )から酒を一斗出した。 酔って 田圃 ( たんぼ )の中に倒れるものがあれば、その年は豊年としたものだそうだ。 」 この話もよく出た。 吉左衛門の代になって、本陣へ出入りの百姓の家は十三軒ほどある。 その多くは主従の関係に近い。 吉左衛門が隣家の金兵衛とも違って、村じゅうの百姓をほとんど自分の子のように考えているのも、由来する源は遠かった。 「また、黒船ですぞ。 」 七月の二十六日には、江戸からの 御隠使 ( ごおんし )が十二代将軍徳川 家慶 ( いえよし )の 薨去 ( こうきょ )を伝えた。 道中奉行 ( どうちゅうぶぎょう )から、普請鳴り物類一切停止の触れも出た。 この街道筋では中津川の祭礼のあるころに当たったが、狂言もけいこぎりで、舞台の興行なしに謹慎の意を表することになった。 問屋九太夫の「また、黒船ですぞ」が、吉左衛門をも金兵衛をも驚かしたのは、それからわずかに三日過ぎのことであった。 「いったい、きょうは幾日です。 七月の二十九日じゃありませんか。 公儀の 御隠使 ( ごおんし )が見えてから、まだ三日にしかならない。 」 と言って吉左衛門は金兵衛と顔を見合わせた。 長崎へ着いたというその 唐人船 ( とうじんぶね )が、アメリカの船ではなくて、ほかの異国の船だといううわさもあるが、それさえこの山の中では 判然 ( はっきり )しなかった。 多くの人は、先に相州浦賀の沖合いへあらわれたと同じ唐人船だとした。 「長崎の方がまた大変な騒動だそうですよ。 」 と金兵衛は言ったが、にわかに長崎奉行の通行があるというだけで、 先荷物 ( さきにもつ )を運んで来る人たちの話はまちまちであった。 奉行は通行を急いでいるとのことで、道割もいろいろに変わって来るので、宿場宿場では 継立 ( つぎた )てに難渋した。 八月の一日には、この街道では 栗色 ( くりいろ )なめしの 鎗 ( やり )を立てて江戸方面から進んで来る新任の長崎奉行、幕府内でも有数の人材に数えらるる 水野 ( みずの ) 筑後 ( ちくご )の一行を迎えた。 ちょうど、吉左衛門が羽織を着かえに、大急ぎで自分の家へ帰った時のことだ。 妻のおまんは刀に 脇差 ( わきざし )なぞをそこへ取り出して来て勧めた。 「いや、馬籠の駅長で、おれはたくさんだ。 」 と吉左衛門は言って、晴れて差せる大小も身に着けようとしなかった。 今までどおりの丸腰で、着慣れた羽織だけに満足して、やがて奉行の送り迎えに出た。 諸公役が通過の時の慣例のように、吉左衛門は長崎奉行の 駕籠 ( かご )の近く 挨拶 ( あいさつ )に行った。 旅を急ぐ奉行は乗り物からも降りなかった。 本陣の前に駕籠を 停 ( と )めさせてのほんのお小休みであった。 料紙を載せた 三宝 ( さんぽう )なぞがそこへ持ち運ばれた。 その時、吉左衛門は、駕籠のそばにひざまずいて、言葉も簡単に、 「当宿本陣の吉左衛門でございます。 お目通りを願います。 」 と声をかけた。 「おゝ、馬籠の本陣か。 」 奉行の砕けた挨拶だ。 水野 筑後 ( ちくご )は二千石の 知行 ( ちぎょう )ということであるが、特にその旅は十万石の格式で、重大な任務を帯びながら遠く西へと通り過ぎた。 街道は暮れて行った。 会所に集まった金兵衛はじめ、その他の宿役人もそれぞれ家の方へ帰って行った。 隣宿落合まで荷をつけて行った馬方なぞも、長崎奉行の一行を見送ったあとで、ぽつぽつ馬を引いて戻って来るころだ。 子供らは街道に集まっていた。 夕空に飛びかう 蝙蝠 ( こうもり )の群れを追い回しながら、遊び戯れているのもその子供らだ。 山の中のことで、 夜鷹 ( よたか )もなき出す。 往来一つ隔てて本陣とむかい合った梅屋の門口には、夜番の 軒行燈 ( のきあんどん )の 燈火 ( あかり )もついた。 一日の勤めを終わった吉左衛門は、しばらく自分の家の外に出て、山の空気を吸っていた。 やがておまんが二人の 下女 ( げじょ )を相手に働いている炉ばたの方へ引き返して行った。 「半蔵は。 」 と吉左衛門はおまんにたずねた。 「今、今、仙十郎さんと二人でここに話していましたよ。 あなた、異人の船がまたやって来たというじゃありませんか。 半蔵はだれに聞いて来たんですか、オロシャの船だと言う。 仙十郎さんはアメリカの船だと言う。 オロシャだ、いやアメリカだ、そんなことを言い合って、また二人で 屋外 ( そと )へ出て行きましたよ。 」 山家らしい 風呂 ( ふろ )と、質素な夕飯とが、この吉左衛門を待っていた。 ちょうど、その八月 朔日 ( ついたち )は吉左衛門が生まれた日にも当たっていた。 だれしもその日となるといろいろ思い出すことが多いように、吉左衛門もまた長い駅路の経験を胸に浮かべた。 雨にも風にもこの交通の要路を引き受け、旅人の安全を第一に心がけて、 馬方 ( うまかた )、 牛方 ( うしかた )、人足の世話から、道路の修繕、 助郷 ( すけごう )の 掛合 ( かけあい )まで、街道一切のめんどうを見て来たその心づかいは言葉にも尽くせないものがあった。 吉左衛門は炉ばたにいて、妻のおまんが 温 ( あたた )めて出した一本の銚子と、到来物の 鮎 ( あゆ )の塩焼きとで、自分の五十五歳を祝おうとした。 彼はおまんに言った。 「きょうの長崎奉行にはおれも感心したねえ。 非常に破格な待遇さね。 一足飛びに十万石の格式なんて、今まで聞いたこともない。 それだけでも、徳川様の 代 ( よ )は変わって来たような気がする。 そりゃ泰平無事な日なら、いくら無能のものでも上に立つお武家様でいばっていられる。 」 「こういう時世になって来たのかなあ。 」 寛 ( くつろ )ぎの 間 ( ま )と名づけてあるのは、一方はこの炉ばたにつづき、一方は広い 仲 ( なか )の 間 ( ま )につづいている。 吉左衛門が自分の 部屋 ( へや )として 臥起 ( ねお )きをしているのもその寛ぎの間だ。 そこへも行って周囲を見回しながら、 「しかし、御苦労、御苦労。 」 と吉左衛門は繰りかえした。 おまんはそれを聞きとがめて、 「あなたはだれに言っていらっしゃるの。 」 「おれか。 だれも御苦労とも言ってくれるものがないから、おれは自分で自分に言ってるところさ。 」 おまんは苦笑いした。 吉左衛門は言葉をついで、 「でも、世の中は妙なものじゃないか。 名古屋の殿様のために、お勝手向きのお世話でもしてあげれば、 苗字 ( みょうじ )帯刀御免ということになる。 三十年この街道の世話をしても、だれも御苦労とも言い手がない。 このおれにとっては、目に見えない街道の世話の方がどれほど骨が折れたか知れないがなあ。 」 そこまで行くと、それから先には言葉がなかった。 馬籠の駅長としての吉左衛門は、これまでにどれほどの人を送ったり迎えたりしたか知れない。 彼も殺風景な仕事にあくせくとして来たが、すこしは風雅の道を心得ていた。 この街道を通るほどのものは、どんな人でも彼の目には旅人であった。 遠からず来る半蔵の結婚の日のことは、すでにしばしば吉左衛門夫婦の話に上るころであった。 隣宿 妻籠 ( つまご )の本陣、青山 寿平次 ( じゅへいじ )の妹、お 民 ( たみ )という娘が半蔵の未来の妻に選ばれた。 この 忰 ( せがれ )の結婚には、吉左衛門も多くの望みをかけていた。 早くも青年時代にやって来たような濃い 憂鬱 ( ゆううつ )が半蔵を苦しめたことを 想 ( おも )って見て、もっと生活を変えさせたいと考えることは、その一つであった。 六十六歳の隠居半六から家督を譲り受けたように、吉左衛門自身もまた勤められるだけ本陣の当主を勤めて、あとから来るものに 代 ( よ )を譲って行きたいと考えることも、その一つであった。 半蔵の結婚は、やがて馬籠の本陣と、妻籠の本陣とを新たに結びつけることになる。 二軒の本陣はもともと同姓を名乗るばかりでなく、遠い昔は相州三浦の方から来て、まず妻籠に落ち着いた、青山 監物 ( けんもつ )を父祖とする兄弟関係の間柄でもある、と言い伝えられている。 二人 ( ふたり )の兄弟は二里ばかりの谷間をへだてて分かれ住んだ。 兄は妻籠に。 弟は馬籠に。 何百年来のこの古い関係をもう一度新しくして、 末 ( すえ )頼もしい寿平次を半蔵の義理ある兄弟と考えて見ることも、その一つであった。 この縁談には吉左衛門は最初からその話を金兵衛の耳に入れて、相談相手になってもらった。 吉左衛門が半蔵を同道して、親子二人づれで妻籠の本陣を 訪 ( たず )ねに行って来た時のことも、まずその報告をもたらすのは金兵衛のもとであった。 ある日、二人は一緒になって、秋の祭礼までには間に合わせたいという舞台普請の話などから、若い人たちのうわさに移って行った。 「吉左衛門さん、妻籠の御本陣の娘さんはおいくつにおなりでしたっけ。 」 「十七さ。 」 その時、金兵衛は指を折って数えて見て、 「して見ると、半蔵さんとは六つ違いでおいでなさる。 」 よい一対の若夫婦ができ上がるであろうというふうにそれを吉左衛門に言って見せた。 そういう金兵衛にしても、吉左衛門にしても、二十三歳と十七歳とで結びつく若夫婦をそれほど早いとは考えなかった。 早婚は一般にあたりまえの事と思われ、むしろよい風習とさえ見なされていた。 当時の木曾谷には、新郎十六歳、新婦は十五歳で行なわれるような早い結婚もあって、それすら人は別に怪しみもしなかった。 「しかし、金兵衛さん、あの半蔵のやつがもう 祝言 ( しゅうげん )だなんて、早いものですね。 わたしもこれで、 平素 ( ふだん )はそれほどにも思いませんが、こんな話が持ち上がると、自分でも年を取ったかと思いますよ。 」 「なにしろ、吉左衛門さんもお大抵じゃない。 あなたのところのお嫁取りなんて、御本陣と御本陣の御婚礼ですからねえ。 お前さまも大きくならっせいたものだ。 」 半蔵のところへは、こんなことを言いに寄る出入りのおふき 婆 ( ばあ )さんもある。 おふきは 乳母 ( うば )として、幼い時分の半蔵の世話をした女だ。 まだちいさかったころの半蔵を抱き、その背中に載せて、歩いたりしたのもこの女だ。 半蔵の縁談がまとまったことは、本陣へ出入りの百姓のだれにもまして、この婆さんをよろこばせた。 おふきはまた、今の本陣の「 姉 ( あね )さま」(おまん)のいないところで、半蔵のそばへ来て歯のかけた声で言った。 「半蔵さま、お前さまは何も知らっせまいが、おれはお前さまのお 母 ( っか )様をよく覚えている。 あれほどの 容色 ( きりょう )は江戸にもないと言って、通る旅の衆が評判したくらいの人だったぞなし。 あのお袖さまが 煩 ( わずら )って 亡 ( な )くなったのは、あれはお前さまを生んでから 二十日 ( はつか )ばかり過ぎだったずら。 おれはお前さまを抱いて、お 母 ( っか )さまの 枕 ( まくら )もとへ連れて行ったことがある。 あれがお別れだった。 三十二の 歳 ( とし )の惜しい盛りよなし。 それから、お前さまはまた、間もなく 黄疸 ( おうだん )を 病 ( や )まっせる。 あの時は助かるまいと言われたくらいよなし。 大旦那 ( おおだんな )(吉左衛門)の御苦労も一通りじゃあらすか。 また、 一人 ( ひとり )で両親を兼ねたような父吉左衛門が養育の辛苦を想像する年ごろにも達していた。 しかしこのおふき婆さんを見るたびに、多く思い出すのは少年の日のことであった。 子供の時分の彼が、あれが好きだったとか、これが好きだったとか、そんな食物のことをよく覚えていて、木曾の焼き米の青いにおい、 蕎麦粉 ( そばこ )と 里芋 ( さといも )の子で造る 芋焼餅 ( いもやきもち )なぞを数えて見せるのも、この婆さんであるから。 山地としての馬籠は森林と岩石との間であるばかりでなく、村の子供らの教育のことなぞにかけては耕されない土も同然であった。 この山の中に生まれて、周囲には名を書くことも知らないようなものの多い村民の間に、半蔵は学問好きな少年としての自分を見つけたものである。 村にはろくな寺小屋もなかった。 人を化かす 狐 ( きつね )や 狸 ( たぬき )、その他 種々 ( さまざま )な迷信はあたりに暗く 跋扈 ( ばっこ )していた。 そういう中で、半蔵が人の子を教えることを思い立ったのは、まだ彼が未熟な十六歳のころからである。 ちょうど今の隣家の 鶴松 ( つるまつ )が 桝田屋 ( ますだや )の 子息 ( むすこ )などと連れだって 通 ( かよ )って来るように、多い年には十六、七人からの子供が彼のもとへ読書習字珠算などのけいこに集まって来た。 峠からも、 荒町 ( あらまち )からも、中のかやからも。 時には隣村の湯舟沢、山口からも。 年若な半蔵は自分を育てようとするばかりでなく、同時に無学な村の子供を教えることから始めたのであった。 山里にいて学問することも、この半蔵には容易でなかった。 良師のないのが第一の困難であった。 信州 上田 ( うえだ )の人で 児玉 ( こだま ) 政雄 ( まさお )という医者がひところ馬籠に来て住んでいたことがある。 その人に『 詩経 ( しきょう )』の 句読 ( くとう )を受けたのは、半蔵が十一歳の時にあたる。 小雅 ( しょうが )の一章になって、児玉は村を去ってしまって、もはや 就 ( つ )いて学ぶべき師もなかった。 馬籠の万福寺には 桑園和尚 ( そうえんおしょう )のような禅僧もあったが、教えて 倦 ( う )まない人ではなかった。 十三歳のころ、父吉左衛門について『 古文真宝 ( こぶんしんぽう )』の句読を受けた。 当時の半蔵はまだそれほど勉強する心があるでもなく、ただ父のそばにいて習字をしたり写本をしたりしたに過ぎない。 そのうちに自ら奮って『 四書 ( ししょ )』の 集註 ( しゅうちゅう )を読み、十五歳には『 易書 ( えきしょ )』や『 春秋 ( しゅんじゅう )』の 類 ( たぐい )にも通じるようになった。 寒さ、暑さをいとわなかった独学の苦心が、それから十六、七歳のころまで続いた。 父吉左衛門は和算を 伊那 ( いな )の 小野 ( おの )村の小野 甫邦 ( ほほう )に学んだ人で、その術には達していたから、半蔵も算術のことは父から習得した。 村には、やれ魚 釣 ( つ )りだ碁将棋だと言って時を送る若者の多かった中で、半蔵ひとりはそんな方に目もくれず、また話相手の友だちもなくて、読書をそれらの遊戯に代えた。 幸い一人の学友を美濃の中津川の方に見いだしたのはそのころからである。 蜂谷 ( はちや ) 香蔵 ( こうぞう )と言って、もっと学ぶことを半蔵に説き勧めてくれたのも、この香蔵だ。 二人の青年の早い友情が結ばれはじめてからは、馬籠と中津川との三里あまりの間を遠しとしなかった。 ちょうど中津川には宮川寛斎がある。 寛斎は香蔵が姉の夫にあたる。 医者ではあるが、漢学に達していて、また国学にもくわしかった。 「自分は独学で、そして 固陋 ( ころう )だ。 もとよりこんな山の中にいて見聞も 寡 ( すくな )い。 どうかして自分のようなものでも、もっと学びたい。 」 と半蔵は考え考えした。 古い青山のような家に生まれた半蔵は、この師に導かれて、国学に心を傾けるようになって行った。 二十三歳を迎えたころの彼は、言葉の世界に見つけた学問のよろこびを通して、 賀茂 ( かもの ) 真淵 ( まぶち )、 本居 ( もとおり ) 宣長 ( のりなが )、 平田 ( ひらた ) 篤胤 ( あつたね )などの諸先輩がのこして置いて行った大きな仕事を想像するような若者であった。 黒船は、実にこの半蔵の前にあらわれて来たのである。 その年、 嘉永 ( かえい )六年の十一月には、半蔵が早い結婚の話も 妻籠 ( つまご )の本陣あてに 結納 ( ゆいのう )の品を贈るほど運んだ。 もはや 恵那山 ( えなさん )へは雪が来た。 ある日、おまんは裏の土蔵の方へ行こうとした。 山家のならわしで、めぼしい器物という器物は皆土蔵の中に持ち運んである。 皿 ( さら )何人前、 膳 ( ぜん )何人前などと箱書きしたものを出したり入れたりするだけでも、主婦の 一役 ( ひとやく )だ。 ちょうど、そこへ会所の使いが福島の役所からの 差紙 ( さしがみ )を置いて行った。 馬籠 ( まごめ )の 庄屋 ( しょうや )あてだ。 おまんはそれを渡そうとして、 夫 ( おっと )を 探 ( さが )した。 「 大旦那 ( おおだんな )は。 」 と下女にきくと、 「蔵の方へおいでだぞなし。 」 という返事だ。 おまんはその足で、 母屋 ( もや )から勝手口の横手について裏の土蔵の前まで歩いて行った。 石段の上には夫の脱いだ 下駄 ( げた )もある。 戸前の錠もはずしてある。 夫もやはり同じ思いで、婚礼用の器物でも調べているらしい。 おまんは土蔵の二階の方にごとごと音のするのを聞きながら 梯子 ( はしご )を登って行って見た。 そこに吉左衛門がいた。 「あなた、福島からお 差紙 ( さしがみ )ですよ。 」 吉左衛門はわずかの 閑 ( ひま )の時を見つけて、その二階に片づけ物なぞをしていた。 壁によせて幾つとなく古い本箱の 類 ( たぐい )も積み重ねてある。 日ごろ彼の愛蔵する俳書、和漢の書籍なぞもそこに置いてある。 その時、彼はおまんから受け取ったものを窓に近く持って行って読んで見た。 その差紙には、海岸警衛のため公儀の物入りも 莫大 ( ばくだい )だとある。 国恩を報ずべき時節であると言って、三都の市中はもちろん、諸国の 御料所 ( ごりょうしょ )、 在方 ( ざいかた )村々まで、めいめい 冥加 ( みょうが )のため上納金を差し出せとの江戸からの達しだということが書いてある。 それにはまた、 浦賀表 ( うらがおもて )へアメリカ船四 艘 ( そう )、長崎表へオロシャ船四艘交易のため渡来したことが断わってあって、海岸 防禦 ( ぼうぎょ )のためとも書き添えてある。 「これは国恩金の上納を命じてよこしたんだ。 」と吉左衛門はおまんに言って見せた。 」 その時になって見ると、半蔵の祝言を一つのくぎりとして、古い青山の家にもいろいろな動きがあった。 年老いた吉左衛門の養母は祝言のごたごたを避けて、土蔵に近い位置にある隠居所の二階に隠れる。 新夫婦の居間にと定められた店座敷へは、畳屋も 通 ( かよ )って来る。 長いこと勤めていた下男も暇を取って行って、そのかわり佐吉という男が今度新たに奉公に来た。 おまんが 梯子 ( はしご )を降りて行ったあと、吉左衛門はまた土蔵の明り窓に近く行った。 鉄格子 ( てつごうし )を通してさし入る十一月の光線もあたりを柔らかに見せている。 彼はひとりで手をもんで、福島から差紙のあった国防献金のことを考えた。 徳川幕府あって以来いまだかつて聞いたこともないような、公儀の 御金蔵 ( おかねぐら )がすでにからっぽになっているという 内々 ( ないない )の取り 沙汰 ( ざた )なぞが、その時、胸に浮かんだ。 昔 気質 ( かたぎ )の彼はそれらの事を思い合わせて、若者の前でもなんでもおかまいなしに何事も大げさに触れ回るような人たちを憎んだ。 そこから子に対する心持ちをも引き出されて見ると、年もまだ若く心も柔らかく感じやすい半蔵なぞに、今から社会の奥をのぞかせたくないと考えた。 いかなる人間同志の醜い秘密にも、その刺激に耐えられる年ごろに達するまでは、ゆっくりしたくさせたいと考えた。 権威はどこまでも権威として、子の前には神聖なものとして置きたいとも考えた。 おそらく隣家の金兵衛とても、親としてのその心持ちに変わりはなかろう。 そんなことを思い案じながら、吉左衛門はその蔵の二階を降りた。 かねて前触れのあった長崎行きの公儀衆も、やがて中津川泊まりで江戸の方角から街道を進んで来るようになった。 空は晴れても、大雪の来たあとであった。 野尻宿 ( のじりしゅく )の 継所 ( つぎしょ )から 落合 ( おちあい )まで通し人足七百五十人の備えを用意させるほどの公儀衆が、さくさく音のする雪の道を踏んで、長崎へと通り過ぎた。 この通行が三日も続いたあとには、 妻籠 ( つまご )の本陣からその同じ街道を通って、新しい夜具のぎっしり詰まった 長持 ( ながもち )なぞが吉左衛門の家へかつぎ込まれて来た。 吉日として選んだ十二月の一日が来た。 金兵衛は朝から本陣へ出かけて来て、吉左衛門と一緒に客の取り持ちをした。 台所でもあり応接間でもある広い炉ばたには、手伝いとして集まって来ているお玉、お喜佐、おふきなどの笑い声も起こった。 仙十郎 ( せんじゅうろう )も改まった顔つきでやって来た。 寛 ( くつろ )ぎの 間 ( ま )と店座敷の間を 往 ( い )ったり来たりして、半蔵を退屈させまいとしていたのもこの人だ。 この取り込みの中で、金兵衛はちょっと半蔵を見に来て言った。 「半蔵さん、だれかお前さんの呼びたい人がありますかい。 」 「お客にですか。 宮川寛斎先生に中津川の香蔵さん、それに 景蔵 ( けいぞう )さんも呼んであげたい。 」 浅見 ( あさみ )景蔵は中津川本陣の相続者で、同じ町に住む香蔵を通して知るようになった半蔵の学友である。 景蔵はもと漢学の 畠 ( はたけ )の人であるが、半蔵らと同じように国学に志すようになったのも、寛斎の感化であった。 「それは半蔵さん、言うまでもなし。 中津川の御連中はあすということにして、もう使いが出してありますよ。 あの 二人 ( ふたり )は黙って置いたって、向こうから祝いに来てくれる人たちでさ。 」 と笑わせた。 山家にはめずらしい冬で、一度は八寸も街道に積もった雪が大雨のために溶けて行った。 そのあとには、金兵衛のような年配のものが子供の時分から聞き伝えたこともないと言うほどの暖かさが来ていた。 寒がりの吉左衛門ですら、その日は 炬燵 ( こたつ )や 火鉢 ( ひばち )でなしに、 煙草盆 ( たばこぼん )の火だけで済ませるくらいだ。 この陽気は本陣の慶事を一層楽しく思わせた。 午後に、寿平次 兄妹 ( きょうだい )がすでに 妻籠 ( つまご )の本陣を出発したろうと思われるころには、吉左衛門は 定紋 ( じょうもん )付きの ( かみしも )姿で、表玄関前の広い板の間を歩き回った。 下男の佐吉もじっとしていられないというふうで、表門を出たりはいったりした。 「佐吉、めずらしい陽気だなあ。 この分じゃ妻籠の方も暖かいだろう。 」 「そうよなし。 今夜は門の前で 篝 ( かがり )でも 焚 ( た )かずと思って、おれは山から木を 背負 ( しよ )って来た。 」 「こう暖かじゃ、 篝 ( かがり )にも及ぶまいよ。 」 「今夜は 高張 ( たかはり )だけにせずか、なし。 」 そこへ金兵衛も奥から顔を出して、一緒に妻籠から来る人たちのうわさをした。 「 一昨日 ( おととい )の晩でさ。 」と金兵衛は言った。 「 桝田屋 ( ますだや )の儀助さんが夜行で福島へ出張したところが、往還の道筋にはすこしも雪がない。 茶屋へ寄って、店先へ腰掛けても、凍えるということがない。 どうもこれは世間一統の陽気でしょう。 あの儀助さんがそんな話をしていましたっけ。 」 「いや、全く。 」 日の暮れるころには、村の人たちは本陣の前の街道に集まって来て、梅屋の 格子 ( こうし )先あたりから問屋の 石垣 ( いしがき )の辺へかけて黒山を築いた。 土地の風習として、花嫁を載せて来た 駕籠 ( かご )はいきなり門の内へはいらない。 峠の上まで出迎えたものを案内にして、寿平次らの一行はまず門の前で 停 ( と )まった。 提灯 ( ちょうちん )の 灯 ( ひ )に映る一つの駕籠を中央にして、木曾の「なかのりさん」の 唄 ( うた )が起こった。 荷物をかついで妻籠から供をして来た数人のものが輪を描きながら、唄の 節 ( ふし )につれて踊りはじめた。 手を振り腰を動かす一つの影の次ぎには、またほかの影が動いた。 この 鄙 ( ひな )びた舞踏の輪は九度も花嫁の 周囲 ( まわり )を回った。 その晩、 盃 ( さかずき )をすましたあとの半蔵はお民と共に、冬の夜とも思われないような時を送った。 半蔵がお民を見るのは、それが初めての時でもない。 彼はすでに父と連れだって、妻籠にお民の家を 訪 ( たず )ねたこともある。 この二人の結びつきは当人同志の選択からではなくて、ただ父兄の選択に任せたのであった。 親子の間柄でも、当時は主従の関係に近い。 それほど二人は従順であったが、しかし決して安閑としてはいなかった。 初めて二人が妻籠の方で顔を見合わせた時、すべてをその瞬間に決定してしまった。 長くかかって見るべきものではなくて、一目に見るべきものであったのだ。 店座敷は東向きで、戸の外には半蔵の好きな松の 樹 ( き )もあった。 新しい青い 部屋 ( へや )の畳は、 鶯 ( うぐいす )でもなき出すかと思われるような 温暖 ( あたたか )い空気に 香 ( かお )って、夜遊び一つしたことのない半蔵の心を 逆上 ( のぼ )せるばかりにした。 彼は知らない世界にでもはいって行く思いで、若さとおそろしさのために震えているようなお民を自分のそばに見つけた。 」 「それはお前に言われるまでもない。 質素はおれも賛成だねえ。 でも、本陣には本陣の 慣例 ( しきたり )というものもある。 呼ぶだけのお客はお前、どうしたって呼ばなけりゃならない。 まあ、おれに任せて置け。 」 半蔵が父とこんな言葉をかわしたのは、 客振舞 ( きゃくぶるまい )の続いた三日目の朝である。 思いがけない尾張藩の 徒士目付 ( かちめつけ )と 作事方 ( さくじかた )とがその日の午前に馬籠の 宿 ( しゅく )に着いた。 来たる三月には尾張藩主が木曾路を経て江戸へ出府のことに決定したという。 この役人衆の一行は、冬のうちに各本陣を 見分 ( けんぶん )するためということであった。 こういう場合に、なくてならない人は金兵衛と問屋の九太夫とであった。 万事扱い慣れた二人は、吉左衛門の当惑顔をみて取った。 まず二人で梅屋の方へ役人衆を案内した。 金兵衛だけが吉左衛門のところへ引き返して来て言った。 「まずありがたかった。 もう少しで、この取り込みの中へ乗り込まれるところでした。 オット。 皆さま、当宿本陣には慶事がございます、取り込んでおります、恐れ入りますが梅屋の方でしばらくお休みを願いたい、そうわたしが言いましてね。 そこはお役人衆も心得たものでさ。 お昼のしたくもあちらで差し上げることにして来ましたよ。 」 梅屋と本陣とは、呼べば 応 ( こた )えるほどの 対 ( むか )い合った位置にある。 午後に、 徒士目付 ( かちめつけ )の一行は梅屋で出した 福草履 ( ふくぞうり )にはきかえて、 乾 ( かわ )いた街道を横ぎって来た。 大きな 髷 ( まげ )のにおい、帯刀の威、 袴 ( はかま )の 摺 ( す )れる音、それらが役人らしい 挨拶 ( あいさつ )と一緒になって、本陣の表玄関には時ならぬいかめしさを見せた。 やがて、吉左衛門の案内で、 部屋 ( へや )部屋の見分があった。 吉左衛門は徒士目付にたずねた。 「はなはだ恐縮ですが、 中納言 ( ちゅうなごん )様の御通行は来春のようにうけたまわります。 当 宿 ( しゅく )ではどんな心じたくをいたしたものでしょうか。 」 「さあ、ことによるとお 昼食 ( ひる )を仰せ付けられるかもしれない。 」 婚礼の祝いは四日も続いて、最終の日の 客振舞 ( きゃくぶるまい )にはこの慶事に来て働いてくれた女たちから、出入りの百姓、会所の 定使 ( じょうづかい )などまで招かれて来た。 大工も来、畳屋も来た。 日ごろ吉左衛門や半蔵のところへ油じみた 台箱 ( だいばこ )をさげて 通 ( かよ )って来る髪結い 直次 ( なおじ )までが、その日は羽織着用でやって来て、 膳 ( ぜん )の前にかしこまった。 町内の 小前 ( こまえ )のものの前に金兵衛、髪結い直次の前に仙十郎、涙を流してその日の来たことを喜んでいるようなおふき 婆 ( ばあ )さんの前には吉左衛門がすわって、それぞれ取り持ちをするころは、酒も始まった。 吉左衛門はおふきの前から、出入りの百姓たちの前へ動いて、 「さあ、やっとくれや。 」 とそこにある 銚子 ( ちょうし )を持ち添えて勧めた。 百姓の 一人 ( ひとり )は 膝 ( ひざ )をかき合わせながら、 「おれにかなし。 どうも 大旦那 ( おおだんな )にお 酌 ( しゃく )していただいては申しわけがない。 」 隣席にいるほかの百姓が、その時、吉左衛門に話しかけた。 ほかの事とも違いますから、一同申し合わせをして、お受けをすることにしましたわい。 」 「あゝ、あの国恩金のことかい。 」 「それが大旦那、百姓はもとより、豆腐屋、 按摩 ( あんま )まで上納するような話ですで、おれたちも見ていられすか。 十八人で二両二分とか、五十六人で三両二分とか、村でも思い思いに納めるようだが、おれたちは七人で、一人が 一朱 ( いっしゅ )ずつと話をまとめましたわい。 」 仙十郎は酒をついで回っていたが、ちょうどその百姓の前まで来た。 「よせ。 こんな席で上納金の話なんか。 伊勢 ( いせ )の神風の一つも吹いてごらん、そんな 唐人船 ( とうじんぶね )なぞはどこかへ飛んでしまう。 くよくよするな。 それよりか、一杯行こう。 」 「どうも旦那はえらいことを言わっせる。 」と百姓は仙十郎の 盃 ( さかずき )をうけた。 「上の伏見屋の旦那。 」と遠くの席から高い声で 相槌 ( あいづち )を打つものもある。 「おれもお前さまに賛成だ。 徳川さまの御威光で、四艘や五艘ぐらいの唐人船がなんだなし。 」 酒が回るにつれて、こんな話は古風な 石場搗 ( いしばづ )きの 唄 ( うた )なぞに変わりかけて行った。 この地方のものは、いったいに酒に強い。 だれでも飲む。 若い者にも飲ませる。 おふき婆さんのような年をとった女ですら、なかなか 隅 ( すみ )へは置けないくらいだ。 そのうちに仙十郎が半蔵の前へ行ってすわったころは、かなりの上きげんになった。 半蔵も方々から来る祝いの盃をことわりかねて、顔を 紅 ( あか )くしていた。 やがて、仙十郎は声高くうたい出した。 木曾のナ なかのりさん、 木曾の 御嶽 ( おんたけ )さんは なんちゃらほい、 夏でも寒い。 よい、よい、よい。 半蔵とは 対 ( むか )い合いに、お民の隣には仙十郎の妻で半蔵が異母妹にあたるお喜佐も来て 膳 ( ぜん )に着いていた。 お喜佐は目を細くして、若い夫のほれぼれとさせるような声に耳を傾けていた。 その声は一座のうちのだれよりも 清 ( すず )しい。 「半蔵さん、君の前でわたしがうたうのは今夜初めてでしょう。 」 と仙十郎は軽く笑って、また 手拍子 ( てびょうし )を打ちはじめた。 百姓の仲間からおふき婆さんまでが右に左にからだを振り動かしながら手を 拍 ( う )って調子を合わせた。 塩辛 ( しおから )い声を振り揚げる髪結い直次の 音頭取 ( おんどと )りで、 鄙 ( ひな )びた合唱がまたそのあとに続いた。 袷 ( あわせ )ナ なかのりさん、 袷やりたや なんちゃらほい、 足袋 ( たび )添えて。 よい、よい、よい。 本陣とは言っても、吉左衛門の家の生活は質素で、 芋焼餅 ( いもやきもち )なぞを冬の朝の代用食とした。 祝言のあった六日目の朝には、もはや 客振舞 ( きゃくぶるまい )の取り込みも静まり、一日がかりのあと片づけも済み、出入りの百姓たちもそれぞれ引き取って行ったあとなので、おまんは炉ばたにいて家の人たちの好きな芋焼餅を焼いた。 店座敷に休んだ半蔵もお民もまだ起き出さなかった。 「いつも早起きの若旦那が、この二、三日はめずらしい。 」 そんな声が二人の下女の働いている勝手口の方から聞こえて来る。 しかしおまんは奉公人の言うことなぞに 頓着 ( とんちゃく )しないで、ゆっくり若い者を眠らせようとした。 そこへおふき婆さんが新夫婦の様子を見に 屋外 ( そと )からはいって来た。 「 姉 ( あね )さま。 」 「あい、おふきか。 」 おふきは炉ばたにいるおまんを見て入り口の土間のところに立ったまま声をかけた。 「姉さま。 おれはけさ早く起きて、山の 芋 ( いも )を掘りに行って来た。 大旦那も半蔵さまもお好きだで、こんなものをさげて来た。 店座敷ではまだ起きさっせんかなし。 「おふき、お前はよいところへ来てくれた。 」とおまんは言った。 「きょうは若夫婦に 御幣餅 ( ごへいもち )を祝うつもりで、 胡桃 ( くるみ )を取りよせて置いた。 お前も手伝っておくれ。 」 「ええ、手伝うどころじゃない。 農家も今は 閑 ( ひま )だで。 御幣餅とはお前さまもよいところへ気がつかっせいた。 」 「それに、若夫婦のお 相伴 ( しょうばん )に、お隣の 子息 ( むすこ )さんでも呼んであげようかと思ってさ。 」 「あれ、そうかなし。 それじゃおれが伏見屋へちょっくら行って来る。 そのうちには店座敷でも起きさっせるずら。 」 気候はめずらしい暖かさを続けていて、炉ばたも楽しい。 黒く 煤 ( すす )けた竹筒、魚の形、その 自在鍵 ( じざいかぎ )の天井から 吊 ( つ )るしてある下では、あかあかと炉の火が燃えた。 おふきが隣家まで行って帰って見たころには、半蔵とお民とが起きて来ていて、二人で 松薪 ( まつまき )をくべていた。 渡し 金 ( がね )の上に載せてある芋焼餅も焼きざましになったころだ。 おふきはその 里芋 ( さといも )の子の白くあらわれたやつを温め直して、大根おろしを添えて、新夫婦に食べさせた。 「お民、おいで。 髪でも直しましょう。 」 おまんは奥の坪庭に向いた小座敷のところへお民を呼んだ。 妻籠 ( つまご )の本陣から来た娘を自分の嫁として、「お民、お民」と名を呼んで見ることもおまんにはめずらしかった。 おとなの世界をのぞいて見たばかりのようなお民は、いくらか 羞 ( はじらい )を含みながら、十七の 初島田 ( はつしまだ )の祝いのおりに妻籠の知人から贈られたという 櫛箱 ( くしばこ )なぞをそこへ取り出して来ておまんに見せた。 「どれ。 」 おまんは 襷掛 ( たすきが )けになって、お民を古風な鏡台に向かわせ、人形でも扱うようにその髪をといてやった。 まだ若々しく、娘らしい髪の感覚は、おまんの手にあまるほどあった。 「まあ、長い髪の毛だこと。 もう娘の時分ともお別れですねえ。 女はだれでもそうしたものですからねえ。 」 おまんはいろいろに言って見せて、左の手に油じみた髪の根元を堅く握り、右手に木曾名物のお 六櫛 ( ろくぐし )というやつを執った。 額 ( ひたい )から 鬢 ( びん )の辺へかけて、 梳 ( す )き 手 ( て )の力がはいるたびに、お民は目を細くして、これから長く 姑 ( しゅうとめ )として仕えなければならない人のするままに任せていた。 「 熊 ( くま )や。 」 とその時、おまんはそばへ寄って来る黒毛の 猫 ( ねこ )の名を呼んだ。 熊は本陣に飼われていて、だれからもかわいがられるが、ただ年老いた隠居からは憎まれていた。 隠居が熊を憎むのは、みんなの愛がこの小さな動物にそそがれるためだともいう。 どうかすると隠居は、おまんや下女たちの見ていないところで、人知れずこの黒猫に 拳固 ( げんこ )を見舞うことがある。 おまんはお民の髪を結いながらそんな話までして、 「 吾家 ( うち )のおばあさんも、あれだけ年をとったかと思いますよ。 」 とも言い添えた。 やがて本陣の若い「 御新造 ( ごしんぞ )」に似合わしい髪のかたちができ上がった。 儀式ばった晴れの装いはとれて、さっぱりとした 蒔絵 ( まきえ )の 櫛 ( くし )なぞがそれに代わった。 林檎 ( りんご )のように 紅 ( あか )くて、そして 生 ( い )き生きとしたお民の 頬 ( ほお )は、まるで別の人のように鏡のなかに映った。 「髪はできました。 これから 部屋 ( へや )の案内です。 」 というおまんのあとについて、間もなくお民は家の 内部 ( なか )をすみずみまでも見て回った。 生家 ( さと )を見慣れた目で、この街道に 生 ( は )えたような家を見ると、お民にはいろいろな似よりを見いだすことも多かった。 奥の間、仲の間、次の間、 寛 ( くつろ )ぎの間というふうに、部屋部屋に名のつけてあることも似ていた。 上段の間という部屋が一段高く造りつけてあって、本格な床の間、障子から、白地に黒く雲形を織り出したような 高麗縁 ( こうらいべり )の畳まで、この木曾路を通る諸大名諸公役の客間にあててあるところも似ていた。 熊は鈴の音をさせながら、おまんやお民の行くところへついて来た。 二人が西向きの仲の間の障子の方へ行けば、そこへも来た。 この黒毛の猫は新来の人をもおそれないで、まだ半分お客さまのようなお民の 裾 ( すそ )にもまといついて戯れた。 「お民、来てごらん。 きょうは 恵那山 ( えなさん )がよく見えますよ。 妻籠 ( つまご )の方はどうかねえ、木曾川の音が聞こえるかねえ。 」 「えゝ、日によってよく聞こえます。 わたしどもの家は 河 ( かわ )のすぐそばでもありませんけれど。 」 「妻籠じゃそうだろうねえ。 ここでは河の音は聞こえない。 そのかわり、恵那山の方で鳴る風の音が手に取るように聞こえますよ。 」 「それでも、まあよいながめですこと。 」 「そりゃ 馬籠 ( まごめ )はこんな峠の上ですから、隣の国まで見えます。 何もかもお民にはめずらしかった。 わずかに二里を隔てた妻籠と馬籠とでも、言葉の 訛 ( なま )りからしていくらか違っていた。 この村へ来て味わうことのできる 紅 ( あか )い「ずいき」の 漬物 ( つけもの )なぞも、妻籠の本陣では造らないものであった。 まだ半蔵夫婦の新規な生活は始まったばかりだ。 午後に、おまんは一通り屋敷のなかを案内しようと言って、土蔵の大きな 鍵 ( かぎ )をさげながら、今度は 母屋 ( もや )の外の方へお民を連れ出そうとした。 炉ばたでは山家らしい 胡桃 ( くるみ )を割る音がしていた。 おふきは二人の下女を相手に、堅い胡桃の 核 ( たね )を割って、 御幣餅 ( ごへいもち )のしたくに取りかかっていた。 その時、上がり 端 ( はな )にある 杖 ( つえ )をさがして、おまんやお民と一緒に裏の隠居所まで歩こうと言い出したのは隠居だ。 このおばあさんもひところよりは健康を持ち直して、食事のたびに隠居所から 母屋 ( もや )へ 通 ( かよ )っていた。 馬籠の本陣は 二棟 ( ふたむね )に分かれて、 母屋 ( もや )、 新屋 ( しんや )より成り立つ。 新屋は表門の並びに続いて、すぐ街道と 対 ( むか )い合った位置にある。 別に入り口のついた会所(宿役人詰め所)と問屋場の建物がそこにある。 石垣 ( いしがき )の上に高く隣家の伏見屋を見上げるのもその位置からで、大小幾つかの部屋がその裏側に建て増してある。 多人数の通行でもある時は客間に当てられるのもそこだ。 おまんは雨戸のしまった小さな離れ座敷をお民にさして見せて、そこにも本陣らしい古めかしさがあることを話し聞かせた。 ずっと昔からこの家の習慣で、女が見るものを見るころは家族のものからも離れ、ひとりで 煮焚 ( にた )きまでして、そこにこもり暮らすという。 「お民、来てごらん。 」 と言いながら、おまんは隠居所の 階下 ( した )にあたる 味噌納屋 ( みそなや )の戸をあけて見せた。 味噌、たまり、漬物の 桶 ( おけ )なぞがそこにあった。 おまんは土蔵の前の方へお民を連れて行って、金網の張ってある重い戸をあけ、薄暗い二階の上までも見せて回った。 おまんの古い長持と、お民の新しい長持とが、そこに置き並べてあった。 土蔵の横手について石段を降りて行ったところには、深い掘り井戸を前に、米倉、木小屋なぞが並んでいる。 そこは下男の佐吉の世界だ。 佐吉も案内顔に、伏見屋寄りの方の裏木戸を押して見せた。 街道と並行した静かな村の裏道がそこに続いていた。 古い池のある方に近い木戸をあけて見せた。 本陣の 稲荷 ( いなり )の 祠 ( ほこら )が 樫 ( かし )や 柊 ( ひいらぎ )の間に隠れていた。 その晩、家のもの一同は炉ばたに集まった。 隠居はじめ、吉左衛門から、佐吉まで一緒になった。 隣家の伏見家からは少年の 鶴松 ( つるまつ )も招かれて来て、半蔵の隣にすわった。 おふきが炉で焼く御幣餅の香気はあたりに満ちあふれた。 「鶴さん、これが 吾家 ( うち )の嫁ですよ。 」 とおまんは隣家の 子息 ( むすこ )にお民を引き合わせて、 串差 ( くしざ )しにした御幣餅をその 膳 ( ぜん )に載せてすすめた。 こんがりと 狐色 ( きつねいろ )に焼けた 胡桃醤油 ( くるみだまり )のうまそうなやつは、新夫婦の膳にも上った。 吉左衛門夫婦はこの質素な、しかし心のこもった山家料理で、半蔵やお民の前途を祝福した。 [#改頁] 十曲峠 ( じっきょくとうげ )の上にある新茶屋には出迎えのものが集まった。 今度いよいよ京都本山の許しを得、僧 智現 ( ちげん )の名も 松雲 ( しょううん )と改めて、 馬籠 ( まごめ )万福寺の跡を継ごうとする新住職がある。 組頭 ( くみがしら ) 笹屋 ( ささや )の 庄兵衛 ( しょうべえ )はじめ、五人組仲間、その他のものが新茶屋に集まったのは、この人の帰国を迎えるためであった。 山里へは旧暦二月末の雨の来るころで、年も 安政 ( あんせい )元年と改まった。 一同が待ち受けている 和尚 ( おしょう )は、前の晩のうちに 美濃 ( みの ) 手賀野 ( てがの )村の 松源寺 ( しょうげんじ )までは帰って来ているはずで、村からはその朝早く五人組の 一人 ( ひとり )を 発 ( た )たせ、人足も 二人 ( ふたり )つけて松源寺まで迎えに出してある。 そろそろあの人たちも帰って来ていいころだった。 「きょうは御苦労さま。 」 出迎えの人たちに声をかけて、本陣の半蔵もそこへ一緒になった。 半蔵は父吉左衛門の 名代 ( みょうだい )として、小雨の降る中をやって来た。 こうした出迎えにも、古い格式のまだ 崩 ( くず )れずにあった当時には、だれとだれはどこまでというようなことをやかましく言ったものだ。 たとえば、村の宿役人仲間は馬籠の石屋の坂あたりまでとか、五人組仲間は宿はずれの新茶屋までとかというふうに。 しかし半蔵はそんなことに 頓着 ( とんちゃく )しない男だ。 のみならず、彼はこうした場処に来て腰掛けるのが好きで、ここへ来て足を休めて行く旅人、馬をつなぐ馬方、または土足のまま茶屋の 囲炉裏 ( いろり )ばたに踏ん 込 ( ご )んで 木曾風 ( きそふう )な「めんぱ」(木製 割籠 ( わりご ))を取り出す人足なぞの話にまで耳を傾けるのを楽しみにした。 馬籠の百姓総代とも言うべき組頭庄兵衛は茶屋を出たりはいったりして、和尚の一行を待ち受けたが、やがてまた仲間のもののそばへ来て腰掛けた。 御休処 ( おやすみどころ )とした古い看板や、あるものは青くあるものは茶色に諸 講中 ( こうじゅう )のしるしを染め出した下げ札などの掛かった茶屋の軒下から、往来一つ隔てて向こうに 翁塚 ( おきなづか )が見える。 芭蕉 ( ばしょう )の句碑もその日の雨にぬれて黒い。 間もなく、半蔵のあとを追って、伏見屋の 鶴松 ( つるまつ )が馬籠の 宿 ( しゅく )の方からやって来た。 鶴松も父 金兵衛 ( きんべえ )の 名代 ( みょうだい )という改まった顔つきだ。 「お師匠さま。 」 「君も来たのかい。 御覧、翁塚のよくなったこと。 あれは君のお 父 ( とっ )さんの建てたんだよ。 」 「わたしは覚えがない。 」 半蔵が少年の鶴松を相手にこんな言葉をかわしていると、庄兵衛も思い出したように、 「そうだずら、鶴さまは覚えがあらっせまい。 」 と言い添えた。 小雨は降ったりやんだりしていた。 松雲和尚の一行はなかなか見えそうもないので、半蔵は鶴松を誘って、新茶屋の周囲を歩きに出た。 路傍 ( みちばた )に小高く土を盛り上げ、 榎 ( えのき )を植えて、里程を示すたよりとした 築山 ( つきやま )がある。 駅路時代の一里塚だ。 その辺は 信濃 ( しなの )と 美濃 ( みの )の 国境 ( くにざかい )にあたる。 西よりする木曾路の一番最初の入り口ででもある。 しばらく半蔵は峠の上にいて、学友の香蔵や景蔵の住む美濃の盆地の方に思いを 馳 ( は )せた。 今さら関東関西の諸大名が一大 合戦 ( かっせん )に運命を決したような関ヶ原の位置を引き合いに出すまでもなく、古くから東西両勢力の相接触する地点と見なされたのも隣の国である。 学問に、宗教に、商業に、工芸に、いろいろなものがそこに発達したのに不思議はなかったかもしれない。 すくなくもそこに修業時代を送って、そういう進んだ地方の空気の中に 僧侶 ( そうりょ )としてのたましいを鍛えて来た松雲が、半蔵にはうらやましかった。 その隣の国に比べると、この山里の方にあるものはすべておそい。 あだかも、西から木曾川を伝わって来る春が、両岸に多い 欅 ( けやき )や雑木の芽を誘いながら、一か月もかかって奥へ奥へと進むように。 万事がそのとおりおくれていた。 その時、半蔵は鶴松を顧みて、 「あの山の向こうが 中津川 ( なかつがわ )だよ。 美濃はよい国だねえ。 」 と言って見せた。 何かにつけて彼は美濃 尾張 ( おわり )の方の空を恋しく思った。 もう一度半蔵が鶴松と一緒に茶屋へ引き返して見ると、ちょうど伏見屋の下男がそこへやって来るのにあった。 その男は庄兵衛の方を見て言った。 「 吾家 ( うち )の 旦那 ( だんな )はお寺の方でお待ち受けだげな。 和尚さまはまだ見えんかなし。 」 「おれはさっきから来て待ってるが、なかなか見えんよ。 」 「弁当持ちの人足も二人出かけたはずだが。 」 「あの衆は、いずれ途中で待ち受けているずらで。 」 半蔵がこの和尚を待ち受ける心は、やがて西から帰って来る人を待ち受ける心であった。 彼が家と万福寺との縁故も深い。 最初にあの寺を 建立 ( こんりゅう )して万福寺と名づけたのも青山の家の先祖だ。 しかし彼は今度帰国する新住職のことを想像し、その人の尊信する宗教のことを想像し、人知れずある予感に打たれずにはいられなかった。 早い話が、彼は中津川の宮川寛斎に 就 ( つ )いた 弟子 ( でし )である。 寛斎はまた 平田 ( ひらた )派の国学者である。 この彼が日ごろ先輩から教えらるることは、暗い中世の否定であった。 中世以来学問道徳の権威としてこの国に臨んで来た 漢学 ( からまな )び 風 ( ふう )の因習からも、仏の道で教えるような物の見方からも離れよということであった。 それらのものの深い影響を受けない古代の人の心に立ち帰って、もう一度 心寛 ( こころゆた )かにこの世を見直せということであった。 一代の先駆、 荷田春満 ( かだのあずままろ )をはじめ、賀茂真淵、本居宣長、平田篤胤、それらの諸大人が受け継ぎ受け継ぎして来た一大反抗の精神はそこから生まれて来ているということであった。 彼に言わせると、「物学びするともがら」の道は遠い。 もしその道を追い求めて行くとしたら、彼が今待ち受けている人に、その人の信仰に、行く行く反対を見いだすかもしれなかった。 こんな本陣の 子息 ( むすこ )が待つとも知らずに、松雲の一行は十曲峠の険しい 坂路 ( さかみち )を登って来て、予定の時刻よりおくれて峠の茶屋に着いた。 松雲は、出迎えの人たちの予想に反して、それほど旅やつれのした様子もなかった。 六年の長い月日を 行脚 ( あんぎゃ )の旅に送り、さらに京都本山まで出かけて行って来た人とは見えなかった。 一行六、七人のうち、こちらから行った馬籠の人足たちのほかに、中津川からは宗泉寺の老和尚も松雲に付き添って来た。 「これは恐れ入りました。 ありがとうございました。 」 と言いながら松雲は 笠 ( かさ )の 紐 ( ひも )をといて、半蔵の前にも、庄兵衛たちの前にもお辞儀をした。 「鶴さんですか。 見ちがえるように大きくお成りでしたね。 」 とまた松雲は言って、そこに立つ伏見屋の 子息 ( むすこ )の前にもお辞儀をした。 手賀野村からの雨中の旅で、 笠 ( かさ )も 草鞋 ( わらじ )もぬれて来た松雲の道中姿は、まず半蔵の目をひいた。 「この人が万福寺の新住職か。 」 と半蔵は心の中で思わずにはいられなかった。 和尚としては年も若い。 まだ三十そこそこの年配にしかならない。 そういう彼よりは六つか七つも 年長 ( としうえ )にあたるくらいの青年の 僧侶 ( そうりょ )だ。 とりあえず峠の茶屋に足を休めるとあって、京都の旅の話なぞがぽつぽつ松雲の口から出た。 ものの 小半時 ( こはんとき )も半蔵が一緒にいるうちに、とてもこの人を憎むことのできないような善良な感じのする心の持ち主を彼は自分のそばに見つけた。 やがて一同は馬籠の本宿をさして新茶屋を離れることになった。 途中で松雲は庄兵衛を顧みて、 「ほ。 見ちがえるように道路がよくなっていますな。 」 「この春、 尾州 ( びしゅう )の殿様が江戸へ御出府だげな。 お前さまはまだ何も御存じなしか。 」 「その話はわたしも聞いて来ましたよ。 」 「新茶屋の境から峠の峰まで 道普請 ( みちぶしん )よなし。 尾州からはもう 宿割 ( しゅくわり )の役人まで見えていますぞ。 道造りの 見分 ( けんぶん )、見分で、みんないそがしい思いをしましたに。 」 うわさのある名古屋の藩主(尾張 慶勝 ( よしかつ ))の江戸出府は三月のはじめに迫っていた。

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あひるの空

きとう あかり 歌詞

とおりゃんせ 歌詞の意味・解釈 わらべうた/行きはよいよい 帰りは怖い? 日本の童謡ミステリー 『とおりゃんせ(通りゃんせ)』は、江戸時代から伝わる。 埼玉県川越市の三芳野神社(下写真)での参りが歌われている。 青信号のメロディでもよく使われていたが、わらべうた『』と同じく、歌詞の解釈を巡ってミステリー的な謎が多く、ある種不気味ともいえる独特の雰囲気を持った童謡の一つだ。 元々は子供の古い遊び歌。 向かい合った二人の子供がアーチを作り、その下を他の子供達が列を作ってくぐっていく。 その間、『とおりゃんせ』を最初から歌っていき、歌の終わりにアーチがおりて、その下にいた子供がつかまるというゲームだ。 も似たような遊び方ができる。 とおりゃんせの謎 菅原道真を祭る三芳野神社 『とおりゃんせ』の歌詞の内容を見ると、神社の境内へと続く細道が登場する。 三芳野神社では菅原道真が祭られている。 三芳野神社は昔、川越城の城郭内に移されたため、「お城の天神さま」と呼ばれていたそうだ。 お城の中なので、一般庶民は気軽に参拝できなくなり、時間も限られ、見張りの兵士も付けられた。 特に、他国の密偵(スパイ)が城内に紛れ込むことを防ぐため、帰っていく参拝客に対して見張りの兵士が厳しく監視をしたという。 これが「行きはよいよい 帰りはこわい」の由来となっているとのことだ。 こわい=疲れた?行きも帰りも怖かった? なお、「こわい」は単に「疲れた」の意味の方言だとする説もある。 確かに、「こわい」を「怖い」と解釈すると、行きは怖くないのかな?という素朴な疑問が生じる。 「御用のないもの通しゃせぬ」なんて歌詞がわざわざ付けられていることを考えると、どうやら怖いのは帰りだけではなさそうだ。 三芳野神社でのエピソードを前提にすれば、最初に見張り役の門番に事情を説明して境内に入らせてもらう時の方が結構「こわい」気がする。 理由を疑われて捕まったりしたら大変だ。 こんな状況では、入る前にかなり気疲れしてしまいそうだ。 そう考えると、行きもかなり「こわい(疲れた)」かも・・・。 このように、色々想像を膨らませて楽しむことができるのが、童謡のいいところだ。 神隠しや埋蔵金伝説などのミステリーの視点から探ってみるのも非常に面白い。 今後もあっと驚くような解釈が登場することを心待ちにしたい。 【参考文献】 関連ページ 「あんたがたどこさ」、「はないちもんめ」、「おちゃらかほい」、「ずいずいずっころばし」など、日本の古いわらべうたの歌詞の意味・解釈 この子の七つのお祝いに…。 子供の成長を祝って神社へお参り・記念写真。

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