ブライトン の 奇跡。 貴方は『ブラインドの奇跡』を知っていますか?

「100点差で負ける」笑いものにされた日本ラグビーの逆転劇に、心奮い立つ!

ブライトン の 奇跡

スポーツ史上最大の番狂わせといわれた、ラグビーワールドカップ2015の「日本 vs 南アフリカ」戦。 ワールドカップ史上最低の成績を持つ「日本」が、過去2回の優勝を誇る最強軍団「南アフリカ」相手にジャイアントキリングを起こした ブライトンの奇跡が、遂に映画化されたよ。 その名も「」。 脚本と監督を務めたのは、オーストラリア出身の「マックス・マニックス」で、ラグビー日本代表の スポットコーチを務めたことがある元ラガーマンなんだ。 ブライトンの奇跡の立役者であるエディー・ジョーンズ役は、ニュージーランドの俳優「テムエラ・モリソン」が、日本代表のキャプテンを務めるリーチ・マイケル役は、オーストラリアの俳優「ラザラス・ラトゥーリー」が演じたよ。 そして日本からは、エディーの母親であるネリー・ジョーンズ役を「工藤夕貴」さん、マイケルの妻であるリーチ知美役を「すみれ」さんが務めたんだ。 この「ブライトン・ミラクル」だけど、実は映画が完成したこと自体が ミラクルだったんだよ。 2019年9月の公開に向けて、撮影は2019年1月から始まる予定だったのに、実際に撮影がスタートしたのは2019年5月のこと。 諸事情によりこのプロジェクトは一度 すべてが白紙になって、製作されないことになったんだって。 でも関係者や支援者の尽力によって、奇跡的にもプロジェクトを復活させることができたんだよ。 ラグビー日本代表のように、何があっても諦めない 不屈の精神が、奇跡を起こしたんだね。 幾度となく困難を乗り越えて完成したこの「ブライトン・ミラクル」は、 アマゾンプライムで観ることができるよ。 みんなもぜひ観てみてね!• コメント:• 関連記事一覧.

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にわかでもいい!オリンピック前に見ておきたい!映画「ブライトンの奇跡」

ブライトン の 奇跡

【忘れられない1ページ~取材ノートから~】2015年9月19日、スポーツ史に残る世紀の番狂わせが起きた。 「ブライトンの奇跡」と称賛された大金星は、いくつもの伏線に導かれた、最後のスクラム選択の末に成就した。 (阿部 令) 勝負事には必ず、勝敗の分岐点がある。 3点を追う後半ロスタイム、エディー・ジョーンズのショット指示を無視し、スクラムを選択した場面は語り草だ。 もちろんあの決断なくして、ヘスケスの逆転トライは生まれなかった。 試合当日の朝、主将のリーチに「最後は思うようにやればいい」と選択権を委ねながら、手のひらを返して激怒したエディー。 そんな激情家の指揮官と選手の、4年にわたる愛憎劇のクライマックスとして、これ以上痛快な帰結はなかった。 ただ、リーチの決断に至る伏線は、一つではない。 当時、原稿と同時進行で試合経過を書き留めたノートを、数年ぶりに開いた。 NRB=ノットリリースザボール、YBLO=相手ボールラインアウト、等々。 誰が見ても格下の日本に対し、一貫してタッチキックを選択してきた巨人が3点を取りにいく。 デビリアス主将がゴールポストを指さした瞬間、ざわめきのようなブーイングが起きた。 南ア選手のメンタルが落ちたのを感じたと、後にリーチも語っている。 試合の流れが日本へ傾く節目となった。 相手陣でリーチがノックオン。 相手スクラムで再開されるまでの間、「ジャパンコール」が自然発生した。 試合中盤までは、日本人サポーターによる「ニッポンコール」。 万国共通語でのチャントは、2万9000人超が埋めたスタンドのほとんどを味方に付けた証左だった。 そのスクラムで、日本は途中出場の右プロップ山下がグイと前に出た。 五分だった試合を通じてのスクラムで、初めてはっきり優勢に立った。 その手応えが、スクラム職人マルク・ダルマゾ・コーチの指導の下、鍛錬してきたFWに自信を与えた。 ましてやシンビンで一人少ない相手はFW7人。 最後の決断へ、必然の流れはできた。 エディー体制通算54試合目で初の組み合わせとなった先発フィフティーン、平均の倍の割合で蹴ったキックに、ゴロのキックオフなどなど。 思えば前日会見、「たくさんのサプライズを用意している」とほのめかした指揮官の筋書き通りに試合は80分間進行し、その先のロスタイムはその想像をも超えた。 それは選手が絶対服従の下でもがき、苦しみ、成長し、巣立っていった瞬間でもあった。 試合後の五郎丸は、「必然です。 ラグビーに奇跡なんてないですよ」と金星を誇った。 ミックスゾーンでもみくちゃになりながら聞いたその言葉は、ノートに記す余裕はなかったが、ICレコーダーと脳裏に、今も深く刻まれている。 一方でその4年後までの長い目で見ると味わい深い言葉に思えてくる。 19年W杯では2試合、ゲーム主将を務めたラブスカフニ。 母国相手に勇敢に戦う日本代表の姿をバーで観戦し「感銘を受けた」。 翌年、クボタからオファーが届く。 「あの試合だけがきっかけではない」が、来日への呼び水となった。 15年W杯で落選した中村亮土は、どこか消化しきれないまま9月19日を迎え、「初めて自分の実力不足を認められた」。 その後も当落線上で食らい付き、本番では全5試合で先発した。 当時はキャップすら持っていなかった選手にも無形の勇気を与えた。 あの勝利があったからこそ、4年後、集いし31人が大きな仕事を成し遂げた。 「ONE TEAM」結成へのストーリーこそ、ブライトンでの勝利が生んだ奇跡だった。 試合後の大混雑に巻き込まれ、ブライトンの宿に戻ったのは19日午前3時すぎ、床に就いたのは明け方近くだった。 5時間ほど睡眠してからスタジアムへ。 まさかの試合展開に目が覚めたのはもちろん、一夜明けた20日の練習取材を終えてホテルに帰るまで1日半以上、一睡もできなかった。 それでも試合後はどうしても、現地に駆け付けていた高校時代のラグビー部仲間と祝杯を挙げたかった。 何とか2杯に自制して帰る道すがら、ふとのぞいた日本料理店だったか、かの酒豪選手がうまそうに酒を飲んでいた姿もまた、脳裏に深く刻まれている。

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奇跡ではなく必然だった。ラグビー日本代表のジャイアントキリング|ラグビー|集英社のスポーツ総合雑誌 スポルティーバ 公式サイト web Sportiva

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日の丸を掲げる日本人の姿が目立った かたや、過去の大会戦績が1勝2分け21敗の日本代表。 対するは、過去2度の優勝を誇る当時世界ランキング3位の南アフリカ。 誰の目にも南アフリカの勝利が明らかに見えた。 ところが、先制したのは日本だった。 相手の反則から五郎丸歩選手がおなじみのルーティンでゴールキックを決めた時から、私は夢見心地だった。 後半、五郎丸選手が目の前でトライを決めると、隣の南アフリカ人夫妻が「今まで見た中で一番美しいトライだ」と絶賛した。 気が付くと、日本サポーターによる「ニッポン」コールが、いつしか「ジャパン」コールとなって会場全体にこだましていた。 3点を追って残り時間はわずかで、日本にペナルティーゴールキックの権利が与えられた。 しかし、リーチ主将は引き分けで試合を終わらせるのではなく、逆転のトライを目指してスクラムを選択。 感動と興奮と熱狂の渦はスタジアムから世界に広がった。 あの時、日本代表が「トライ」したのは、ただの逆転勝利ではなかった。 「日本ラグビーの歴史を変える」ことだった。 南ア戦勝利が日本を救った 「平成スポーツ史 ラグビー」(ベースボール・マガジン社) このほど出版された「平成スポーツ史 ラグビー」(ベースボール・マガジン社)で、長年日本ラグビーを海外に発信しているイギリス人ジャーナリスト、リッチ・フリーマンさんは、この平成の大金星が「日本ラグビーを救った」と評する。 この頃は、2019年のラグビーワールドカップ日本大会で開幕戦と決勝戦を行うはずだった新国立競技場の建設が開幕に間に合わないことが明らかになった時期だった。 さらに、スーパーラグビーへの参入が決まったサンウルブズは選手集めが難航していた。 ラグビーワールドカップという世界的イベントの開催国として、当事者能力を疑われかねない失態が続き、統括団体「ワールドラグビー」の日本に対する不満が募っていた。 そうした中での南アフリカ戦勝利だった。 日本に対する逆風は「ブライトンの奇跡を受けて、きれいに消えた」とフリーマンさんは評する。 平成の節目を飾った神戸製鋼 同書が選んだ「平成ベストフィフティーン」には、リーチ主将や五郎丸選手をはじめ、この時の日本代表メンバーから9人が並ぶ。 ほかには、14番ウィングに「世界のトライ王」大畑大介さんが挙がる。 大畑さんのテストマッチでのトライ通算「69」は、今も破られない世界最多記録だ。 そして12番センターは故・平尾誠二さんだ。 大畑さんと平尾さんの2人が所属した神戸製鋼は平成の始まりと終わりに足跡を残した。 平成になったばかりの1989年1月10日、第41回全国社会人大会決勝で東芝府中を破り、初めて日本一の座につき、新日鉄釜石と並ぶ大会7連覇へ歩み始めた。 表彰式には入団3年目で主将に就任した平尾さんが臨んだ。 月日は過ぎて2018年12月15日、神戸製鋼は平成最後の日本選手権で18季ぶりに優勝し、名門復活を遂げた。 この時の表彰式で、前川鐘平主将は右手に優勝杯、左手に平尾さんの遺影を掲げていたことも記憶に残る。 平成ラグビーの顔 ヤマハ発動機での思い出を語る清宮監督(今年1月29日、東京都内で) 平尾さんと並ぶ平成ラグビー史の顔と言えば、清宮克幸さんがいる。 大学4年の年に平成が始まり、今年1月にトップリーグ監督を退いた。 その30年間、「すべてのステージで存在感を示し続けた」と同書はたたえる。 1989年度に早稲田大学の主将として大学選手権で優勝。 卒業後にサントリーに入社、3期目に主将となり、1995年度に神戸製鋼の連覇を7で止めた。 その後、早大監督として大学選手権で3度優勝、サントリー監督としてトップリーグ優勝(2007年度)、ヤマハ発動機のチーム強化で監督に就任し、2014年度に日本選手権優勝を果たした。 早大主将に就任した年には、外国人コーチの先駆けで、後にオールブラックスコーチになるグレアム・ヘンリーさんの指導を仰いだ。 ヤマハでは「レスリング」を練習に取り入れるなど「進取の精神」で取り組み、結果を出してきた。 大学ラグビーとトップリーグを知り尽くし、「見たいものを、見たい人が満足できるものにしていく努力をするのが大事」と、同書のインタビューに答えている。 清宮さんは現在、静岡県のラグビーワールドカップ会場となるエコパスタジアムで、女性と子どもに特化したスポーツクラブの代表理事を務める。 令和の時代に何を生み出すのか、これからも清宮さんから目が離せない。 日本人初のラグビー殿堂入りした坂田好弘さん、トンガ出身で日本で活躍する外国出身選手の先駆けとなったシナリ・ラトゥさんなど名選手をたどりつつ、日本のラグビー史をひもといている。 【 プロフィル】稲沢 裕子(いなざわ・ゆうこ) 1982年読売新聞東京本社入社。 社会部、生活部、経済部記者、ヨミウリ・オンライン編集担当から女性向けサイト「大手小町」編集長。 調査研究本部主任研究員を経て、2018年4月から昭和女子大学特命教授。 2013年6月、日本ラグビーフットボール協会の女性初の理事に就任。

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