アッシリア 王国。 アッシリアとアケメネス朝の統治の違いとは?

アッシリア

アッシリア 王国

第39代 シャムシ ・ アダトの時代に王名表に書き入れられたらしい。 (アモリ系の部族名にちなんだ名も記されているという) 1. トゥディヤ ( 在位年代 不明) 2. アダム ( 在位年代 不明) 3. ヤンギ ( 在位年代 不明) 4. サフラム ( 在位年代 不明) 5. ハルハル ( 在位年代 不明) 6. マンダル ( 在位年代 ; 不明) 7. イムツ ( 在位年代 不明) 8. ハルツ ( 在位年代 不明) 9. ディダヌ ( 在位年代 不明) 10. ハヌ ( 在位年代 不明) 11. ズアブ ( 在位年代 不明) 12. ヌアブ ( 在位年代 不明) 13. アバズ ( 在位年代 不明) 14. ベル ( 在位年代 不明) 15. 17.アピアシャル ( 在位年代 ; 不明) 18.ハレ ( 在位年代 ; 不明) 19.サマヌ ( 在位年代 ; 不明) 20.ハヤヌ ( 在位年代 ; 不明) 21.イル ・メル ( 在位年代 ; 不明) 22.ヤクメシ ( 在位年代 ; 不明) 23.ヤクメニ ( 在位年代 ; 不明) 24.ヤズクル ・イル ( 在位年代 ; 不明) 25.イラ ・カブカブ (イラ ・カプカプ) ( 在位年代 ; 不明) 第39代 シャムシ ・ アダドの改竄による王の名。 彼は、自分の簒奪を正当化するために 自分の父の名を、時代をさかのぼって数百年前の王の名に書き入れた。 アッカド時代のイシュタル神殿から出てきた石板(アッシュールで発見された)。 父ダキキの名は王名表には載っていないが、その役職とされる「伝令」とは、特別な職業だったらしい。 28.キキヤ ( 在位年代 ; 不明) アッシュール市の城壁を初めて築いた王とされる。 29.アキヤ ( 在位年代 ; 不明) 30.プズル ・アッシュール 1世 (前21世紀 初め ) 本によっては、この王が「ウル第三王朝」「イシン王朝」から独立し、アッシリアの独立王朝を建国した、と書いてある。 31.シャリム ・アフム ( 在位年代 ; 不明) 32.イル ・シュマ ( 在位 ; 前21世紀 なかば ) バビロン第一王朝の祖スム ・アブム (在位;前2057〜2044) と争う (?)。 この王の時代、アッシリアはバビロニアやティグリス河以東の地方に「自由を確立した」。 33.エリシュム 1世 ( 在位年代 ; 不明) 碑文が多い(17点)。 36.プズル ・アッシュール 2世 ( 在位年代 ; 不明) 37.ナラム ・ シン ( 在位年代 ; 不明) アッカド王朝の同名の名高い「ナラム ・シン」 (在位;前2254〜前2218) と、どのような関係があるかは不明。 祖父のサルゴンがアッカドのサルゴン大王と混同されることが多かったため、こちらも混同されて王名表の中に書き入れられてしまったのではないか。 また、同時期の都市エシュヌンナの支配者にも、同名の人物がいたらしい。 38.エリシュム 2世 ( 在位; 前1920〜前1900) シャムシ アダドに王位を簒奪される。 この時期、アッシリアは弱体化しきっていた。 (なお、この支配年代は、とあるサイトで見つけてきたものなんだけど・・・ 間違っているよね。 父の名は「イラ ・カブカブ」・・・アモリ系小王国の王。 シャムシ アダドはそれまでの「アッシリア王国」を滅亡させたが、みずから新王朝を開くようなことをせず、 王名表を改竄することで、自分がアッシリアの由緒正しい後継者である、とアピールした。 領土を 西方へ拡大 ・・・・マリ王国を併合したことを手始めに、シュバト・エンリル、テルカ、エカラトゥム、カラナ、シュシャラなどを獲得し、メソポタミア全域に及ぶ支配権を確立。 広大な広大な領土の支配の権限を二人の息子に分割して与えた。 ・自分;アッシリアの中央にある都市「シュバト・エンリル」。 ・長子イシュメ・ダガン ・・・・ 「エカラトゥムの王」 (エシュヌンナ等の外敵に対する備え) ・次子ヤスマハ・アッドゥ (イアスマダ ・アダド) ・・・・ 「マリの王」 (シリア方面に対する備え) シャムシ アダドが死去すると、バビロニアのハムラビ王の援助を受けて、ヤスマハ アダドはマリから追い出され、旧・マリ王国の遺児ジム・リリムが返り咲く。 「世界の王」という称号を使用する。 (ごくまれに) 首都の物価を制定。 4g)に対し、穀物2クル(504リットル)、羊毛1シェケル5ミナ(7. 5kg)、油1シェケル2セア(16. 4グラムなのに羊毛1シェケル5ミナが7. 5キログラムって、どういう単位なんだ、ミナ。 この王が死ぬ前後までバビロン第一王朝のハムラビ (位;前1792〜前1750) が「シャムシ ・アダドに」臣従していた(らしい)。 40.イシュメ ・ダガン 1世 ( 在位; 前1780〜前1741 /39年間 ) 前1762年から、バビロン第一王朝の ハムラビ王がメソポタミアの大外征を開始し、一時期強大な勢力を誇り、アッシリアはたびたびこれに敗れた。 前1759年にはアッシリアはバビロニアに併合されている。 (前1740頃〜前1363年) 北西の大国・ミタンニ王国の圧迫を受ける。 この時代、アッシリアの王の名前のみがかろうじて分かっている程度で、それ以外の資料は極端に少ない。 アッシリア王家の中では、王位簒奪が相次いだらしい。 しかし、この時代に長い服従の期間と独立への抗争を地道に重ねたことにより、アッシリアは「それまでの商業重視の性格から 軍事主義的性格 を鍛えていった」という。 41.アッシュール ・ドゥグル ( 在位; 前1741 ? 〜?) 「名前のない人の息子」。 42〜46. 5人の王(名は不明) 47.アダシ王 ( 在位年代 ; 不明) 48〜55. 8人の王(名は不明) 56.エリシュム 3世 ( 在位年代 ; 不明) 57.シャムシ ・アダト 2世 ( 在位年代 ; 不明) 58.イシュメ ・ダガン 2世 ( 在位年代 ; 不明) 59.シャムシ ・アダト 3世 ( 在位年代 ; 不明) 60.アッシュール ・ニラリ 1世 ( 在位; 前1540年 ごろ ) わずかに、破壊された神殿・王宮の建造・修理の記録が残っている。 61.プズル ・アッシュール 3世 ( 在位 ; 前1540年 ごろ〜 ?) 前1500年ごろ ? 、バビロニア・カッシート王朝のブルナ ・ブリアシュ1世と、国境の確定をした。 62.エンリル ・ナツィル 1世 (エンリルナシル) ( 在位年代 ; 不明) 63.ヌル ・イリ ( 在位年代 ; 不明) 中央公論社の『世界の歴史1 人類の起源と古代オリエント』には、この間に 「アッシュール ・ シャドニ」「アッシュール ・ ラビ1世」「アッシュール ・ ナディン ・ アヘ1世」「エンリル ・ ナツィル2世」 ( 在位 ; 前1430〜25) の4人の名が加えられている。 (即位代の番号は振られていない) アッシュール・ナディン・アヘ1世は、エジプトと同盟を結び、エジプト王から黄金を贈られた。 なぜこれらの王の名が「王名表」に含まれていないのかは、不明である。 66.アッシュール ・リム ・ニシェシュ ( 在位 ; 前1408〜1401) 67.アッシュール ・ナディン ・アヘ(アケ) 2世 Asshur - nadin - akhe ( 在位 ; 前1400〜1391) 独立君主として、エジプト君主と文通。 それまではアッシリア人は、自分たちの土地を「シュバルトゥ」「スバルトゥ」と呼んでいた。 前1360年、強国・ミタンニ王国の内紛に乗じ、ヒッタイトの シュッピリウマ王と共同で、ミタンニ王トゥシュラッタを破り、その後トゥシュラッタが宮廷内の内乱で暗殺されたため、今度はフルリ王アルタタマと共同で、ミタンニの領土を分断してしまった。 エジプト王に戦車・馬・ラピスラズリを贈り、お返しに黄金を贈られる。 当初バビロニア王 ブルナ ・ ブリアシュ3世はいまだにアッシリアを自分の属国とみなしていて、アッシュール ・ウバリトがエジプト王 アメンホテップ4世を「兄弟」と呼ぶつきあいを開始したとき、「なぜアッシリアが勝手にエジプトに行ったのか(自分には理解できない)、エジプトがもしバビロニアを愛するならば、アッシリアにどんな商売もさせないように」という脅しの内容の書簡を送っている(アマルナ文書)。 しかしまもなくバビロニアもアッシュールウバリトが強大な権力を有していることを認めざるを得なくなり、アッシリアの皇女を自分の息子の嫁として迎えた。 バビロニア王ブルナブリアシュ3世の死後、王となったその孫が暗殺されると、アッシュールウバリトはバビロニアの内政に干渉し、自分の曾孫クリガルズを王位につけた。 70.エンリル ・ニラリ ( 在位; 前1327〜1318) or. ( 在位; 前1340〜1326 ごろ ) ????? 父がバビロニア王位につけたクリガルズと、激しく争う。 「神の代行者」である王が、初めて 「リンム職」 (市民の中から毎年くじで選ばれる俗権の代表者) に就任する。 71.アリク ・デン ・イリ (アリク ・デーン ・イル) ( 在位; 前1317〜1306) このころ、シリア方面からアラム人が進入し、またスティ人やアフラメ人も登場し、王たちはその対応に忙しくなった。 72. アダド ・ ニラリ 1世 ( 在位; 前1305〜1274 /31年間 ) 征服活動。 西方;ハルラン、カルケミシュを占領。 東方;バビロニアからラピク以北を奪う。 ハニガルバド (旧ミタンニ=シリア北部) の王シャトゥアラ1世を捕虜に、朝貢を課す。 その後ふたたび同地に進軍し、シャトゥアラの子ワサシャッタを破り「アッシリアに反逆した」という理由で、多くの王族をアッシュールに連行する。 アダドニラリが ヒッタイト王ムワタリに「兄弟」と呼びかけた書簡に対しヒッタイト王は不快を示し、「なぜ私がお前に兄弟と呼ばれなければならないか、私とお前が同じ母親の腹から生まれたとでも言うのか」という書簡を返している。 それまで慣例として使われていた王の称号「エンリルの代官」「神アッシュールの副王」のほかに、かつてシャムシアダドが使った称号「世界の王」を復活させる。 (以後、慣例化) 73. シャルマネセル 1世(シャルマナサル) ( 在位; 前1273〜1244 /29年間 ) 上のアダドニラリがおこなった、ハニガルバドの王シャトゥアラの対する勝利は、シャルマネセルの業績とする本もある。 ハニガルバドは、ヒッタイトやアラム人と結んでいたため、アッシリアはそれらとも争うようになる。 アッシリアに対抗して、ヒッタイト王ハットゥシリ3世はバビロニア王カダシュマン ・トゥルグと条約を結んだ。 東北部のウルアトリ (のちのウラルトゥ) をとりあえず平定する。 東方の山岳部族クタ人 (グティウム人) を討って、莫大な戦利品を得る。 バビロニア軍を殲滅。 カルフ (要害の地 ;大ザブ河とティグリス河の合流点) に第二の王宮を建造。 74. トゥクルティ ・ ニヌルタ 1世 (ツクルチ ・ ニヌラタ) ( 在位; 前1243〜1207 /36年間 ) 前1232年、バビロニア占領。 バビロニア王カシュ・ティリアシュをアッシュールに連行。 アッシリア王が短期間バビロンを直接統治したのち、 (1年半後に叛乱が起こったので、バビロンを焼き払ってマルドゥク神殿の神像を略奪した後) 、傀儡政権をバビロニアに立てる。 『トゥクルティ・ニヌルタ英雄叙事詩』 ・・・対バビロニア戦の武勲。 アッシリアに代々うたわれる。 「彼の力は栄光に満ち、前後の不敬な者を焼き焦がす。 彼の激しさは燃え立ち、左右の従わざる者を焼き尽くす。 彼の輝きは恐ろしく、全ての敵を打ち破る。 彼は四方の隅まで征服し、王たちはひとりのこらず恐れて生きる」 都市アッシュールに巨大な新王宮を建造したが、どうしたわけか彼自身はこれを使用しなかった。 さらにアッシュールの郊外に、新都カール・トゥクルティ・ニヌルタ (=トゥクルティニヌルタの港) を建造。 新都造営には強制連行された被征服民を使用。 しかし王の死後、この新都は打ち捨てられる。 ギリシャの伝説中で「ニノス王」と呼ばれる。 息子のひとりに 暗殺される。 略奪されたマルドゥクの神像の神罰、とうわさされる。 76.アッシュール ・ニラリ 3世 ( 在位; 前1202〜1197) 77.エンリル ・クダリ ・ウスラ ( 在位; 前1196〜1191) 78.ニヌラタ ・アッパール ・エクル ( 在位; 前1191〜1179) 79.アッシュール ・ダン 1世 ( 在位; 前1178〜1133) 80.アッシュール ・レシャ ・イシ 1世 (レーシュ ・イシ) ( 在位; 前1132〜1115) バビロニア、グティウム人、アラム人、ルルビ人を討つ。 81.ニヌルタ ・トゥクルティ ・アッシュール (ニヌラタ ・ツクルチ ・アシュル) ( 在位; 前1115〜1114) 82.ムタッキル ・ヌク (ムタキル ・ヌスク) ( 在位; 前1115〜1114) 第81代と第82代の在位年代が重なってるんですよねー。 どうして? 83. ティグラト ・ ピレセル 1世 (チグラス ・ピレセル) ( 在位; 前1114〜1076 /38年間 ) ヒッタイト帝国崩壊後に出現したムシュキ人、カシュキ人を討つ。 北方のナイリに3度進出。 アッシリア王として 「初めて地中海まで進出」。 「ユーフラテス川を28回渡った」 ・・・シリアに14回遠征したことを意味する。 富裕なフェニキア都市アルワドに入城し、エジプト王から贈り物を得る。 タドマル(=パルミラ)、スヒなどのアラム人を、何度も討伐。 マルドゥク・ナディン・アヘ王を攻めて、バビロンを焼き払い、バビロニアを臣従させる。 地中海の海豹狩り、シリアの象狩り、獅子狩り、などのスポーツを好む。 農業の保護・奨励、行政制度の改正、神殿・王宮の造営、などの政策。 「ハムラビ法典」などをを手本とした 「中期アッシリア法典」の編纂。 『宮廷法令集』、『ハレム法令集』。 ;女性に関する条項が多く、女性の人権保護の様子がうかがえるという。 しかしまもなくアラム人の侵入と、大飢饉が重なり、アッシリアの国力は大きく後退。 ティグラト・ピレセルも暗殺された。 84.アシャレド ・アピル ・エクル (アシャリド ・パル ・エクル) ( 在位; 前1076 (?) ) or ( 在位; 前1075〜74) 85.アッシュール ・ベル ・カラ ( 在位; 前1076〜1057) 86、87. 王の名は不明 88.シャムシ ・アダド 4世 ( 在位; 前1053〜1049) 89〜93. 5人の王(名は不明) (前1049〜1010) 94.アッシュール ・ラビ 2世 ( 在位; 前1010〜970) 95.アッシュール ・レシ ・イシ 2世(アッシュール ・レーシュ ・イシ) ( 在位; 前969〜967) 96.ティグラト ・ピレセル 2世 (チグラス ・ピレセル) ( 在位; 前966〜935) 97.アッシュール ・ダン 2世 ( 在位; 前934〜912) ふたたびアッシリアの勢力拡大開始。 このころアッシリアの統治政策として、被征服民の 強制移住が、以前にもまして活発におこなわれるようになる。 99.トゥクルティ ・ニヌルタ 2世(ツクルチ ・ニヌラタ) ( 在位; 前890〜884) 北方の「前人未踏の地」まで攻め入る。 ユーフラテス河中流域まで平定。 「あらゆる敵を殲滅し、敵の死骸を杭に刺す」 100. アッシュールナツィルパル 2世 (アッシュールナシルパル、アッシュール・ナツィル・アプリ) ( 在位; 前883〜859 /18年間 ) 大征服王。 アッシリアを軍事的征服国家の方法へと進めた。 精力的で残酷な征服王として、典型的なアッシリア君主。 反抗する敵に対しては徹底的な破壊でもってむくい、服属民には重い貢納を課す。 従来の2頭立て2人乗りの馬車を、3頭立て3人乗りの馬車に改造して、戦車隊の攻撃力を倍増させる。 初めて戦車隊に代わる 「騎兵隊」を創設。 官制の改革もおこなう。 反抗した敵に対しては 徹底的な破壊政策で応じたので、シドン、ビュブロス、アルワドのフェニキア都市は、王の軍が近づいてくるだけで朝貢した。 「ティグリス河の彼岸から大海 (地中海) に至る、全ラケおよびスヒを、 (バビロニアとの境の) ラビクに至るまで征服し、スブナト水源からギルザンまで、下ザブ河の彼岸からザバンの上のティル・バリまで、ティル・シャ・アブダニからティル・シャ・ザブダニまでの地方を」征服した。 首都を ニネヴェから カルフ (現在のニムルド) に遷都し、新しい大王宮を建造。 どうでもいいことですが、アッシュールナシルパル「1世」、というのはどこにいたの?????? 101. シャルマネセル 3世 ( 在位; 前858〜824 /34年間 ) 父の遺策を継いでさらなる領土の拡大政策を推進。 しかしシリア (アラム人と新ハッティ人の諸国) に遠征したとき、カルケミシュやアレッポは進んで降伏したが、ダマスクス王国のビル・イドリ王 (旧約聖書のベン・ハダド) はイスラエルの十二王と同盟して、激しく抵抗した。 前854年、カルカルの戦い ・・・ アッシリアとダマスクスの両軍が、大損害をこうむる。 ヘルモン河の戦い ・・・ シュルマネセルはダマスクス王ハザエルの守る堅城を落とすことが出来なかったため、ハウランまでの周辺の土地を荒らし回った。 これに畏れて、シドン、ティルスなどのフェニキア都市と、イスラエル諸王のうちイェフはアッシリアに朝貢。 小アジア(キリキア、タバル)に対する遠征。 北方の ウラルトゥが強大になってきたので、何度か遠征したが、あまり効果は無かった。 バビロニア王に反逆したその弟を討つためにバビロンに遠征し、これを見事討ってバビロンの神殿で祭祀をおこない、バビロンにおけるアッシリア王の名声を強化する。 晩年、息子アッシュール ・ダニン ・アプリが叛乱を起こし、これは帝国全土に広がって王に対する大叛乱となった。 王はこれを鎮圧することが出来ず、カルフの王宮で、ひとりさびしく死んだ。 ところで、どうでもいいんですけど、シャルマネセル「2世」というのは、いったいいつ・・・・・・ 102.シャムシ ・アダド 5世 ( 在位; 前823〜811) 父シャルマネセルを死に追いやった兄の叛乱を、バビロニアの援助を借りて鎮圧。 しかし、内政は混乱し、地方代官(官僚)の権力が増大した。 なかには独立国のように振る舞う臣下も出現。 103.シャミラム ( 在位; 前811〜806) 104.アダド ・ニラリ 3世 ( 在位; 前806〜783) 幼年で即位したので、 母サムラマト (セミラミス、シャムシアダド5世妃 ・・・セミラーミデ?) が、摂政として後見。 (摂政の実状は不明) この賢明な母サムラマトのはなしは、のちにギリシャで伝説となった。 『女王セミラミス』 4年後に王が親政を始めると、西方遠征のためにバビロニアの援助を得るため、バビロニアの神をアッシリアで祀ることを始めた。 ダマスクス王マリ (ベン・ハダド3世) およびフェニキア諸都市はアッシリアに貢納。 ウラルトゥが強大化し、とくに王 メヌアシュ (位;前810〜?) がアッシリアに大きな脅威。 カルフの代官ベール・タルツィ・イルマの碑文によると、神ナブーのみを崇めようとする「唯一神信仰」の動きがあったらしい。 105.シャルマネセル 4世 ( 在位; 前782〜773) 106.アッシュール ・ダン 3世 ( 在位; 前772〜755) 107.アッシュール ・ニラニ 3世 ( 在位; 前754〜745) ニラニ??? 3世??? アッシュールニラリ3世は別にいるしなあ・・・・。 108. ティグラトピレセル 3世(トゥクルティ・アパル・エシャラ) ( 在位; 前744〜727 /17年間 ) 王位簒奪者であったと考えられている。 (王の碑文の中に父親の名前がないから) 即位後、地方行政制度を改革し、州の規模と総督の権限を縮小、都市の特権を廃止。 主として被征服民から成る 国王常備軍を創設して、軍隊の強力化をはかる。 戦車の改造、攻城兵器の開発。 征服戦争の方針を改め、征服地の徹底破壊をおこなわずに出来るだけ被征服民のアッシリア領内への強制移住をさせるようにした。 アッシリア領内の荒れ地の開拓をさせ、王室財政の安定に貢献させる意図。 前735年までに、北方の強国ウラルトゥの王シャルドゥリシュ2世と戦ってこれを制圧。 (その後ウラルトゥは北方のキンメリア人によって、滅亡) シリアでは3年間アルバドを包囲して陥落させ、前738年までにダマスクスのラスンヌ、サムアルのパナンム、サマリアのメナヘム、などをむこうから降伏させた。 前734年、 ユダのアハズ王の懇願を受けイスラエルに進軍、ラスンヌとイスラエルの王ペカと戦って殺し、大量の捕虜を得る。 (ユダのバビロン捕囚) このユダヤ人王国同士の争いを「シリア・エフライム戦争」という。 さらにシリアのアラム人の王国とバビロニアを破って属領とし、さらに南方のガザやアラビアまで遠征して、ベドウィンとも戦った。 進取の気風に富んだやり手の人物で、農民や商人を慈しんだと言われる。 旧約聖書では「プル」 (ピレセルを短縮した、バビロニアによる蔑称) とも記されている。 そのあとティグラトピレセルという名前でも登場するので知らなかったら、別人かとも思うね。 109.シャルマネセル 5世 ( 在位; 前726〜722) 父王が死ぬやいなやイスラエル王が態度を変えて反抗しだしたため、シャルマネセルは怒り狂ってイスラエルに攻め込み、王ホシュアを捕らえ、首都サマリアを包囲し、ついにイスラエル王国は滅亡した。 しかし、旧約聖書にはサマリアを陥落させたのはシャルマネセルと記されているが、史実ではそれをおこなったのはサルゴン2世である。 即位後、首都カルフを棄て、新たに 新都ドゥル・シャルキン (「サルゴンの砦」、現在のコルサバード) に遷都。 ティグラトピレセルが農民・商人などの市民を重視したのに対して、サルゴンは神官たちの歓心を買うことに努めた。 即位直後の、王に対するシリア・イスラエルの反乱に対し、ふたたび難なく鎮圧。 前721年、 バビロニア王メロダク・バラダン2世 (カルデア部族の首領) の独立。 ; 東方のエラム人がバビロニアを支援。 前709年、サルゴンは苦戦の末、バビロンを陥落させるが、バビロン王は 行方知れずに。 アナトリア方面 ; フリュギア人の王ミダスとの戦い ; 前709年に北方のキンメリア人に対抗するために和睦。 対ウラルトゥ ; 苦戦。 アナトリア諸都市とウラルトゥが同盟してアッシリアに当たる。 サルゴンはウラルトゥ戦役のさなかに死去。 111. センナケリブ (サンナケリブ、シン ・ アヘ ・ エリバ) ( 在位; 前704〜681 /23年間 ) 「シン・アヘ・エリバ (センナケリブ) 」とは、「月の神シンが (死んだ) 兄弟たち (複数形) の代わりを与えてくれた」の意。 皇太子時代からめざましい戦功をあげ、才能ある若者だったが、父に似ず 我儘で無鉄砲だった。 先王の都;ドゥル・シャルキンを廃棄し、あらたに ニネヴェに新王宮を建設。 バビロニア ; メロダク・バラダンの復活。 アッシリアの代替わりを機に挙兵。 センナケリブはバビロニアに遠征。 メロダク・バラダンはまたも逃亡し、行方知れずに。 バビロニア王家のベール・イプニを傀儡としてバビロニア王としたが、やがて反逆したのでこれを討ち、今度は 嫡子アッシュール ・ ナディン ・ シュムをバビロニア王とする。 前689年、バビロニアの ムシェジブ ・ マルドゥクが エラム王ウンマン ・ メナヌと計って挙兵。 アッシリア人バビロニア王アッシュール・ナディン・シュムはエラムの王都に連れ去られ、消息不明に。 ハルレの戦い ; センナケリブはバビロニア・エラムの連合軍を散々に打ち破る。 前689年、 バビロンの大破壊。 バビロン史上最大の破壊。 西方 ; シリアのフェニキア諸都市がエジプトの援助を受けて反逆したため、これを征討。 イスラエル ; ユダ王国の王ヒゼキアがシリアと通じたため、ラキシュの戦いで破る。 さらにエルサレムを包囲。 旧約聖書のなかにあるエルサレム包囲の記述によると、アッシリア軍は18万5千の大軍でエルサレムを包囲したが、ヤハウェの使いによって撃たれたため、翌朝にはすべて死体となっていたため、センナケリブは軍を撤退させた、と。 真偽はわからない。 建設・治水工事をつぎつぎとおこない、「センナケリブ運河」を建設し、業績を上げる。 宗教政策 ; いろいろやったらしい。 後継者問題 ; 長子アッシュール・ナディン・シュムがバビロニア戦のさなかに消息不明になってしまったため、代わって末子エサルハドンを後継者に決定したが、これが他の王子たちの反感を買い、王は息子たちの手によって暗殺された。 これもまた、トゥクルティ・ニヌルタの時と同じく、バビロン破壊の時に持ち去ったマルドゥク神像の祟り、と噂される。 112. エサルハドン (アッシュール ・ アヘ ・ イディン) ( 在位; 前680〜669 /11年間 ) 父王が兄弟たちに殺害されたので、エサルハドンはあわてて首都を脱出し、小アジアに潜伏、約1年半かけて兄たちの叛乱を鎮圧。 父王が破壊政策を続けて各地の反乱を招いたことを教訓に、バビロンの復興と帝国の再建に努める。 「大法官の制度」; 宰相として努めるが、一番重要な役割は、王のために帝国各地の情報を収集すること。 キンメリア人が南下してきたので、軍をおこしてこれを阻んだが、敗走する敵を追うことはしなかった。 西方のティルスを包囲したが、力攻めで勝利を急ぐのではなく、持久戦でもって陥落するのを待った。 エジプト遠征 ; シリアとイスラエルが繰り返し反乱を起こすのは、これを支援するエジプトがあるからだと考えた王は、前671年、大軍を率いてエジプトに侵攻。 メンフィスにいたエチオピア朝の王 タハルカと戦ってこれを破り、敗走するタハルカを追って、テーベまで攻め上がった。 しかし、遠隔地エジプトを支配するのはむずかしく、エサルハドンがアッシリアに帰ると反乱を起こしたため、再度大軍を率いて討伐に向かったが、その途上で死去した。 自分自身が病弱だったため、宗教問題に大きな関心を持っていた。 ・・・天文学者、占い師、予言者を重用。 彼らが「いま王の運勢が悪い」と告げると、王はみずから「退位」し、「代理王」を立てて、自分は「農夫」と名乗った。 「農夫」といいながらある程度までの政治はおこない、一定期間が過ぎると「代理王」は王の代わりに殺害され、「王」として殺害された。 そして「農夫」はふたたび王に戻った。 後継者問題 ; 父王の失敗と兄たちの反乱を見たのに関わらず、エサルハドンは長子シャムシ・シュム・ウキンを後継者とはせず、嫡子ではないアッシュールバニパルを後継者と定めた。 ただしこのことに対し、部下たちが不満を持たぬように、王はくりかえし皇太子アッシュールバニパルに対する恭順を示す誓約書を作成し、おおくのその誓約の石版が現存しているという。 それ意外にも、エサルハドンは多くの場面で大量の契約書を作成させる王だった。 113. アッシュールバニパル ( 在位; 前668〜627 /41年間 ) ああ、もうめんどうくさいからを見て(涙)。 アッシリアの黄金時代。 115.シン ・シュム ・リシル ( 在位; 前623?) 116.シン ・シャル ・イシュクン ( 在位; 前623〜612) アッシュールバニパルの息子。 前王を追い払って王位を回復。 北方のスキタイ人に悩まされていたが、東方のメディア王国の王キュアクサレス2世が、このスキタイ人を打ち破る。 ところがこのメディア王が、刃を返してバビロニア王ナボポラッサルとくんでアッシリアを攻めてきたため、シン・シャル・イシュクンはこれと戦ったが、首都ニネヴェを包囲され、ついに陥落。 王は戦死した。 117.アッシュール ・ウバリト 2世 ( 在位; 前612〜?) 首都ニネヴェが陥落すると、アッシリアの残党は西方の都市ハランに逃れ、アッシュールウバリトを旗頭に、エジプトに援助を求めながら抵抗を試みたが、エジプトの援軍は途中イスラエルで撃破され、援助は届かず、前609年にアッシリアの勢力は撃滅された。 ああ、アッシリア! 私が高校生だった頃からこの帝国に入れあげている理由は、なんといっても帝王たちの「名前」の響きの美しさにある、といってもいいでしょう。 「アダトニラリ」「ティグラトピレセル」「アッシュールナシルパル」「シャルマネセル」「センナケリブ」「エサルハドン」。。。。。 ・・・・ ああ、なんて美しい。 一方で「ギルガメシュ」だとか「ハンムラピ」だとか「カダシュマンハルベ」とか「トトメス」だとか「ハットゥシリ」だとか「メロダクバラダン」だとか「ネブカドネザル」とか。。。。。 他地域の王たちの名は、なんと濁々しいことか。 え? どちらも同じに聞こえるですか?? うわはははははは。 およそ1400年間も連綿とその王国が栄え続けたこと、も驚きです。 1400年ですよ、1400年。 3回も長期にわたる衰退期がありながら、ひとつの民族が同じ王朝を名乗り続ける。 国の性質もほとんど変わらない。 こんな国の例は他にはありません。 しかし、 それと同時に、この大帝国の帝王たちには、卓越した「戦争王」がとても多い。 というのも私の関心のもとでした。 アッシリアというと、「戦争王国」として有名ですからね。 ・・・・ ところが、こうして一覧にしてみると、そうでもないですね。 特筆するに足る「王」 (一覧では名前に色が付いている王)を数えてみても、わずか13名なんですよね。 117人のうちの。 しかし言い換えれば、この13人の人物によって、この帝国の名は永遠に人類の歴史の中に輝き続けることになるわけで。 「王名表」を眺めてみると、この117人の名前には、幅広いバリエーションがあって驚きます。 「アッシリア風の」名前というのはひととおり指摘出来ますが、アッシリア風でありながらパターンから外れているもの、なぜか明らかにバビロニア風なもの、それ意外のもの、いろいろあります。 そのなかで、さすが「神の国」アッシリア。 神々の名に由来する名が一番多いので、一応、神々の名と、その他の名前の要素となっている言葉の意味を、挙げておこうと思います。 アッシュール ・・・ アッシュール市の市神。 アッシリアの守護神。 戦闘神。 エンリル ・・・ シュメールの天候神。 バビロニア、アッカド、アッシリアなどで広く信仰される。 アダド ・・・ 天候神。 稲妻と雄牛で象徴される。 ニヌルタ ・・・ 戦闘神。 獅子で表現される。 トゥクルティ ・・・ ???? ティグラト ・・・ って、きっと「ティグリス河」の神格化されたものに違いない(と勝手に)思っていましたが、ティグラトピレセルの正式名は「トゥクルティ・アパル・エシャラ」なそうなので、上の「トゥクルティ」なのだということが判明。 なぁんだ。 シャマシュ ・・・ バビロニアの太陽神。 冥府の神でもある。 「シャムシアダド」の「シャムシ」とも関係あるか? (ないかも) アヘ ・・・ 「兄弟」の意。 アプリ ・・・ じつはこれが一番知りたい。 エサラ??? 「シャルマネセル」=シュルマン神は指導者である。 王名表を作ってみて思ったのですが、実際に業績を列挙していったのですが、あまりにも部族・地域名を表す固有名詞が多すぎて、混乱しますよね。 実際に地図を見て確認しなかせらこれをみると、この帝国が拡大の様が見られて、その巧妙さと歴史の流れが感じられて感嘆するはずなのですが、なかなかそこまで行きませんよね。 今後、それがわかるようにこの王名表を作り直していくのが、わたしの課題です。 また、王名表として王名を列挙するだけでは、この偉大な帝国の特異性は、全然表現できません。 じっさい、アッシリアは幾多の民族、王国が輩出したメソポタミアの中でも、一、二を争うぐらいの異常な民族です。 他の征服王朝と比べて、あんなに周辺地域を荒らし回り、各地の金銀財宝、人材を自国に大量に持ち帰りながら、最初から最後までアッシリアはアッシリアなのは、このアッシリア民族という民族の中に、最初からアッシリアという国を規定する、一貫した規範があったからです。 これは、アッシリアを守護するアッシュールの神が理由だった、と書いてある本もあります。 そして、このように表にしてみると、アッシリアという国の中で「王」が絶対的な、超越的な権力を持っていた、と受け取られると思うのですが、実際にはそれはあまり正しくありません。 王はずっと「王 (神アッシュール)の代行者 (副王)」と名乗っていて、名の通り、宗教的な権威を受け持つ、と考えられていました。 一方で、アッシリアの中で「世俗的な権力の代表者」として『リンム職』というのがあって、アッシリアでは一貫して、王とは別に、市民の中から選ばれていました。 (まあ王の権力が強大化してからはこれはなかば名目的なものになり、最初は公正に市民の中から毎年クジで選ばれていたのに、のちには序列でもってリンムが選ばれるようになり、また70代エンリルニラリ以降は、慣例として王の治世初年だけは王がリンムを兼任するようになりますが)、 さらに王がなにかをしようとしたときは、アッシュール在住の族長(貴族)たちの承認を受けなければならなかったのです。 (後期の王たちが次々と新都を造営したのは、伝統的な勢力を忌避しようとしたからだとされる) それなのに、一番重要なのは、業績を列挙してみると、(皇位継承争いは別にして)王が自国の市民、貴族たちと衝突した、という記述はまったくありません。 たとえば専制的なカエサルやローマ皇帝たちが、元老院や軍隊と衝突し続けたことと、くらべてみてください。 最後に、 やっぱり、名前が不明な王が20名もいるのが気分悪いですなあ。 きっと王名表自体のその部分が失われているのでしょう。 多分、名前が見えないアッシュールナシルパル1世とシャルマネセル2世(とアッシュールニラニ1世と2世????)は失われた中に入っているんでしょうなぁ・・・ 参考文献 『 世界の歴史1 人類の起源と古代オリエント』 中央公論社 著者;アッシリアの部分は 渡辺和子 1998年 ¥2524 これが今、手軽に手に入る本の中では世界一くわしい本。 アッシリア以外にも、他の国々のかなり詳細な王名表が付いていて、洪水のような名前の群れをながめてうっとり。 これ、初めて見たとき、滂沱の涙を流してしまいました(ウソ)。 でも、それだけでも、この本は買う価値があります。 写真はカラーだし、地図も豊富だし、巻末資料文献(のタイトル)も豊富ですしね。 『西洋の歴史 〔古代・中世編〕』 ミネルヴァ書房 著者;アッシリアの部分は山本茂が監修。 この本が出たのは昭和28年なので、その後アッシリア学は大いに進展しているに違いなく、これもどの程度信用できるか心配なのですが、この本にしか載っていない情報も多くて。 センナケリブの項、「才能ある若者だったが、父に似 ず我儘で無鉄砲だった」って、その根拠は。 『 生活の世界歴史1 古代オリエントの生活』 河出書房新社 アッシリアの部分の著者は佐藤進 1991年 ¥660 題名の通りですが、アッシリアに関わらずオリエント全体の古代生活が多くて、楽しい。 この章は非常に情報が詳細で、ここに書いてあることを要約するだけで、エサルハドンだけでこのページの文字数を超えてしまいそうなほどだ。 とても楽しく読んだのだけれど、思い切ってこの本から得た情報は、すべて省略しました。 専門書は全然読んでないので分からないのだけど、アッシリアで出土した石版をすべて読めば、アッシリアの君主ひとりひとりについて、こういうふうに人物像に迫った記述が出来るのでしょうなあ。 ああ、悔しい。 わたしの作ったこのリストでは、一番触れたかったひとりひとりの性格について、全然触れていないですから。 文章中、『メソポタミアの三大女傑』と書かれてある部分に、注目。

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メソポタミア王朝興亡史

アッシリア 王国

概要 [ ] アッシリアの歴史は、主に 言語の変化、即ち北方方言であるの時代変化に基づいて4つに時期区分される。 は、基本的に文字史料の無い時代である。 主にのの変化によって更に細かく区分されるが、政治史の復元はほぼ不可能と言って良い。 末期になると僅かに、やアッカド語による文字史料が現れる。 後世のアッシリア社会の原型は、この頃既に形成されていたと考えられる。 は、アッシリア語が古アッシリア語と呼ばれる形であった時代で、主に頃から頃までを指す。 アッシリア商人や、の台頭によって多くの文書史料が残り、アッシリアの政治史が初めて具体的に復元されうる時代である。 便宜上までが古アッシリア時代とされるが、イシュメ・ダガン1世以降のアッシリア史は史料の欠落によってほとんどわかっておらず、政治史的には別時代である。 は、アッシリア語が中アッシリア語と呼ばれる形に変化した時代で、初頭あたりから、の末頃までの時代を指す。 アッシリアの君主達が、旧来の「アッシュールの副王」ではなく、「偉大な王、アッシリアの王」を称するなど、大国としてのアッシリアが台頭した時代である。 は、アッシリア語が新アッシリア語と呼ばれた形であったの末頃から、アッシリアの滅亡までの時代を指す。 この時代アッシリアは、全オリエントを覆う世界帝国を打ち立てた。 有名な王のが作られたのもこの時代である。 なお、「アッシリア帝国」と「新アッシリア時代」は混同するべきではない。 名称 [ ] 「アッシリア」はアッシュルの地を意味する表記に由来するにおける呼称で、本来の北方方言であるアッシリア語による名称は(Asshur)。 アッシュルの名はチグリス川上流にあった国土とその中核となった首邑の名であり、かつそれらを神格化した神の名でもあった。 アッシリアの名称はアッシュルの意味する意味空間のうち、アッシュルの地、及びそこに成立した古代国家、さらにはその国家がオリエント一帯を征服して成立した大帝国を指す。 地理 [ ] アッシュルの地はバビロニアの北西に位置するチグリス川沿いの高原地帯であり、やの山岳地帯を北の背に、メソポタミアの低地をはるか南方に望む場所に位置している。 この土地はバビロニアのようなメソポタミア低地域と異なり、年間降水量が200mm以上あり、農業にを必要としない。 いわゆるドライファーミング(天水農業)地帯である。 そのため、バビロニアが常に悩まされてきた農地の塩類集積とは無縁であり、年毎の降水量に左右されて収量が不安定な側面は否めないものの、塩分に弱いを豊富に産した。 また、いわゆるの中央部でもあるため、と、、といったオリエント各地を結ぶ交易の中継地でもあった。 民族 [ ] アッシリア人はに属するアッカド語の北方方言、アッシリア語を用いた集団であるが、非セム語を用いた集団もアッシリア人の形成にかかわっていたと考えられる。 また、その民族形成の背景となった上記の地理条件もあって、アッシリア商人は特に古アッシリア時代の200年間はオリエント各地で活躍し、アナトリア半島のカネシュ(現)など現地の都市に隣接してカールム(港の意)と呼ばれる商業拠点集落を数多く形成していた。 アッシリア、すなわちアッシュル国家は本来はアッシュル市を中心とする狭い範囲を版図とした。 歴史の初期にはの覇権下にあり、またその長い歴史の中で何度も周囲に覇権を拡大してはまた、その覇権を失って新たに台頭した大国、例えばやなどの覇権下に屈した。 しかし諸民族と国々の興亡の激しいオリエント世界で例外的な一貫性をもってよくその中央集権的な国家体制を維持し、に入った紀元前千年紀前半、いわゆる新アッシリア王国と呼ばれた時代にオリエント全域を征圧・支配する大帝国を打ち立てた。 しかし、この大帝国が衰退、解体すると共に滅亡し、その1400年間に及ぶ長い歴史に終止符を打った。 しかし、この大帝国を統治する制度的な技術はこの後オリエントの広域に覇権を打ち立てたや、に受け継がれた。 国家体制 [ ] アッシリアの制度上の君主は神格化された国土、あるいは主邑であるアッシュル神で、人間の君主はアッシュルの副王を名乗った。 伝統的なアッシリアの国家体制の中核機関はアールムと呼ばれた市民会であり、国家運営の重要事項をここで審議、決定し、この決定は母国から遠く離れたアナトリア半島などの商業拠点の植民市にも伝えられた。 アールムの議長を務めたと考えられる公職にリンムがあり、毎年アッシュル市の有力者の中からリンムが選ばれ、年代の記録はその年のリンム職の人物の名前をもって行った。 この紀年法は、その年の職の人名をもってしたの制度に似ている。 アッシリアの歴史の初期にはアッシリア王(アッシュルの副王)の権力はアールムとリンムによって制限されたものであった。 アールムとリンムが職務についた施設が「市の館」で、行政上の署名捺印に用いられる市の館のはアッシュル神の印章をも兼ねており、アールムとリンムが伝統的に所持した権威がここにもうかがえる。 やがて王権の拡大と共に王がリンムを兼ねることも行われるようになってアッシリア王は強大な権力を振るうようになり、アールムとリンムの権限も形骸化したが、この制度自体はの時代にもコンスルとの制度を維持し続けた古代ローマと同様に、大帝国に発展した新アッシリア王国期を経てアッシリア滅亡まで維持された。 初期アッシリア時代 [ ] 「」も参照 に入る前の初期アッシリアの歴史は、文献史料が殆ど残されておらず、専ら考古学的成果によってその流れを把握するに留まる。 後世アッシリアと呼ばれる地方に人が居住し始めたのは極めて古い。 紀元前6000年紀頃の ()期には、アッシリア地方の最も早い時期の集落、 ()、 ()等が形成され始めた。 紀元前5000年紀半ば以降になると南部メソポタミアで発生したが北部メソポタミアにおいてもその全域に広がり、などに大規模集落が形成されている。 これは南部メソポタミアでの灌漑農業の拡大とそれによる人口増加、経済の発展に伴い、各種資源の需要が高まり、金属資源や木材や家畜類などの交易規模が増大した結果、概要にあるようなアッシリアの地理条件のために交易中継地として人々の移動が激しくなった影響で、南部メソポタミアの文化が北部メソポタミア全域にまで拡大したものと考えられる。 その後のを経て、南部メソポタミアとは一線を画す独自の地方文化が形成されて行く事となる。 半ば頃( ())、後に神格化される都市、への最初の居住が始まった。 同じ時期までにカルフ()やアルベラ()など、アッシリアの中心的役割を果たす都市の基礎も形成されている。 帝国の時代には既に都市国家として独自の政治体制が確立されていたと考えられる。 アッカド帝国やの時代にはその覇権下に置かれ、建築事業などの一部が文字記録として残されるようになる。 アッカド・ウル第三王朝の時代と前後して、都市アッシュルの神格化が進み、政治的一体性を持った地方としてのアッシリアと、アッシリア社会の原型が形成された。 そして、紀元前2000年頃、ウル第三王朝の滅亡と前後してアッシリアが歴史に登場する古アッシリア王国時代へと入っていく事となる。 古アッシリア時代 [ ] 詳細は「」を参照 に入ると、アッシリア史が具体的に姿を現し始める。 この時代のアッシュールは、まだ都市国家の一つに過ぎなかったが、アッシリア商人は交易活動を広く行い交易先の各地の都市に隣接して商業植民市カールム(港湾区)を作ったことで知られる。 またその他にも、ワバラトゥムと呼ばれる居留区を作り、北メソポタミア一帯をその商圏とした。 国家制度の点では、市が極めて重要な意味を持った。 この頃には既にアッシュルの神格化は完全に進んでおり、この都市名を記述する時には神を意味する限定詞ディンギルが付された他、地名を意味する限定詞キが付された場合や、限定詞無しの場合でも、同じようにアッシュル神を指した。 そして、アッシュル市では アールムと呼ばれる市民会の決定が重要視され、その決定は遠くアナトリア半島などの商業拠点にも伝えられていたが、そのアールムの議長を務める役職として、 リンム職がエリシュム1世によって初めて設けられ、アッシリア政治制度の根幹が完成された。 この時代のアッシリア王は、その称号として アッシュルの副王を名乗っており、神格化された国土アッシュルと人間との関係を祭礼によって仲介することで 市の繁栄を保障する役割を負った。 また王は同時に商人達の統率者であり、 監督官(ワクルム、新アッシリア時代にはウクル)と言う称号を用いて司法権を行使し商業上のトラブルを治めた。 政治史的には、紀元前1813年にアッシリアを征服して王となった、の存在が極めて重要である。 彼はアッシリアに 市を築き、そこを拠点にオリエント最大の王国を築きあげたほか、バビロニア風の王権概念を持ち込んで自らを「世界の王」と称した。 またアッシリア王名表が初めて編纂され、その王統譜が整理された。 だが、彼の後継者達はその巨大な王国を維持することが出来ず、王の称号もアッシュルの副王に戻り、世界の王を称する者は古アッシリア時代を通じて現れなかった。 紀元前1750年頃以降の時代は、文献史料も見つかっておらず、中アッシリア時代に入るまでの歴史は殆ど明らかになっていない。 アナトリア諸都市に設けられたカールムなどの商業拠点もの台頭によって破壊されたと考えられており、この時代の終わりとともに戦火によって廃絶している。 社会・経済 [ ] アッシリア商人達にとって取り分け重要だったのはを用いたバビロニアとアナトリアの間の中継貿易であり、その拠点として作られたカールムの一つカネシュ(現キュルテペ)からは、当時のアッシリア商人達が残した商業文書が多数発見されている。 アッシリア商人は、バビロニア産ののや、ザグロス・のをアナトリアで売買して利潤を得た。 ことにの急激な普及によって、その製造に必要な錫の需要が高まっていたことは、アッシリア商人が躍進した原因の一つである。 アッシリア商人の活躍したアナトリアではは産するが、錫のを欠いていたのである。 そしてこの交易ネットワークは高度に整備されており、商人の分業も進んでいた。 アッシリア商人達は、各都市に常駐する情報収集者を通して、為替相場(金、銀、錫などの交換レート)情報に気を配り、個人投資家から委託される形での資本運用さえ行っていた。 ナルックム(袋の意)と呼ばれる長期の資本運用契約に関する文書史料が残存している。 またこういったアッシリア商人達は、諸外国や、別の商人との間で商業契約を多数結んで自らの利益を確保しようとした。 文化 [ ] 商業活動の拡大はアッシリアに多くの富を齎したと考えられる。 この時代、アッシュール市の城壁は数度にわたって造営が繰り返され、頻繁な建築活動が行われていたと考えられる。 王碑文などの文献史料も飛躍的に増大し、商業活動のために文字は急速に普及した。 特にアナトリアのカールムであるカネシュ(現キュルテペ)からは膨大な数の商業契約文書や備忘録のようなものが発見され、当時の商人の生活を生々しく知ることができる。 (明色は直接統治、暗色は影響範囲を示す) - 初代 - 最後 変遷 からの独立 の治世 シャムシ・アダド1世の王国が崩壊して以来、小規模勢力に過ぎなかったアッシリアが、有力国として台頭するのがこの時代である。 中アッシリア時代の初期にはアッシリアはミタンニ王国の勢力圏下に置かれていた。 このためこの時期のアッシリアに関する史料は少ない。 アッシリア史における転機となったのがの治世である。 彼の時代に、アッシリアはミタンニの影響力を完全に排除し、大国としての道を歩み始めることになった。 このことは彼がエジプト王へ向けて送った外交文書からも確認できる。 当時オリエント世界はヒッタイト、ミタンニ、バビロニア、エジプト等の列強諸国が君臨していたが、ミタンニを打倒したことによってその遺領を獲得し、バビロニア、ヒッタイトとも戦って勝利を収め、アッシリアはオリエント世界に確固たる地位を築いた。 の時代には、はじめてアッシリア王がバビロニアを征服し、これを支配下に納めることに成功している。 だが、彼の死後はが起こり、政治混乱によって勢力が減衰した。 の時代には一時回復したものの、中アッシリア時代の後半にはの侵入によって国内が混乱しアッシリアは混乱期に入ったため、残存史料も少なく、政治史の復元が困難になる。 こうしたアッシリアの「本国」を形成する諸州はアッシュル神に対する奉納を行っていた。 アッシリア地方とも言うべきまとまった領域の姿が明らかになったともいえる。 この外側にアッシリアによって征服された属国が広がっており、アッシリア国家はこの本国と属国によって形成されていた。 社会・経済 [ ] この時代のアッシリアの経済的基盤は、主に穀物類の栽培や牧畜などの農業生産にあったといわれる。 急速に拡大する領土にあって、経済も変化したと考えられるが詳細はよくわかっていない。 中アッシリア法典と呼ばれる法律文書が作成されたのもこの時代である、これは発見されている中ではアッシリア最古の成文法である。 女性に関する規定が多いことで知られ、女性保護の要素があると言われる場合も多いが、少なくとも現代的な人権思想をそこに投影するのは危険である。 この法典の中では、男性が女性に対する際に取るべき作法や取ってはならない行動が規定されているほか、女性の衣服についての制限、(で頭を隠すなど)が規定されている。 女性の衣服制限についてはその女性が属する階級によって細かくわかれており、既婚、未婚の女性や上流階級の女性はヴェールを着用しなくてはならなかったが、逆に女やはヴェールの着用を禁止されていた。 これは根本的には男性の保護下にある女性とそうでない女性の判別を目的としたといわれ、婚姻に際しては新郎が新婦にヴェールをかぶせるという儀式が行われた。 文化 [ ] 中アッシリア時代から始まったバビロニアへの政治介入と征服は、バビロニア文化をアッシリアに齎した。 王号の中には「の代官」や「世界の王」などバビロニア風の称号も加えられたほか、バビロニアから戦利品として齎された芸術品や書記達は、アッシリア文化に著しい影響を与えた。 代表的なものが『トゥクルティ・ニヌルタ英雄叙事詩』に代表される叙事詩編纂であり、バビロニア文学の影響を著しく受けた物である。 またアッシュール神をシュメールの神、神と習合させるなどの動きがあった。 エンリル神の神話がアッシュール神のものとして再編成され、最高神として位置づけることが試みられた。 このほか、本国を構成する州がアッシュール神に対する共通の宗教儀礼を執り行うことによって結びつきを強めるなど、宗教面の整備が進んだ。 新アッシリア時代 [ ] 新アッシリア帝国 - アッシリアの版図の変遷 、 、、、 - - - - 最後 変遷 不明 xxxx年xx月xx日 滅亡 アッシリア帝国の版図 アッシリアが全オリエント世界を支配する初の帝国を打ち立てるのがこの時代である。 この時代は古代オリエント史において最も記録史料が豊富な時代であり、詳細な政治史の復元が可能である。 占星術などの記録が豊富に残っており、天文学的見地から非常に正確な年代確定が可能であるほか、、リンム表(を参照)、に代表される年代誌、各種行政文書、法律文書、条約、記念碑文などが分野の偏りがあるものの大量に残存している。 ・等によって中アッシリア時代後期の混乱が収められた後、アッシリアの王達は盛んに遠征を行い、次々と領土を拡大していた。 いわゆる アッシリア帝国と呼ばれる時代に入るのはの時代である。 彼はバビロニアやヘブライ人の記録でプル(Pul)と呼ばれた( ()、 ())。 被征服者であるバビロニア人やヘブライ人から憎まれてこの蔑称で記録されたとされる。 アッシリアはこの帝国を維持するために各種の方策を講じた。 最も有名なものの一つが 大量捕囚政策としてしられる被征服民の強制移住である。 強制移住自体はオリエント世界に広く見られた手段であるが、アッシリアのそれはその組織性と規模において史上例を見ないものである。 特にティグラト・ピレセル3世の治世以降は、急激に拡大した領土での反乱防止と職人の確保を目的としてたびたび行われた。 後世にはこうした力による強圧的な統治がよく伝えられ、アッシリアの支配を特徴付けるものと言われてきたが、アッシリアの帝国統治は単純に武力によって行われただけでなく、征服地や服属地域の文化や言語、宗教や政治体制に関する情報を詳細に収集し、それに基づく飴と鞭を使い分けた対応をとったことが同時代記録の分析から明らかになっている。 こうした異文化情報の集積による帝国統治の手法は、アッシリア以降に登場した新バビロニア王国やアケメネス朝ペルシアのような広域統治を行った帝国に継承され、その統治技術の基礎となったと考えられている。 またその国家は、本国たる アッシュルの地と周辺の征服地域は強く区別された。 本国は、中アッシリア時代より拡大していたが、神格化された国土アッシュール神という宗教イデオロギーで結びついていた。 各征服地がどのように統治されたのかについては地域差があり、また学者の間でも議論のある所である。 バビロニアの扱いは別格であり、アッシリア王がバビロニア王を兼任する場合や、バビロニアに代理王を置く場合などがあった。 これらを、高度に発達した官僚制度が支えていた。 ティグラト・ピレセル3世の治世からの治世までの100年あまりの間にアッシリアは歴史上空前の政治的統合体を作り上げることになる。 この時代のアッシリア政治史における重要案件はバビロニア問題であった。 ティグラト・ピレセル3世がバビロニアを完全征服して以降も、事あるごとに( ())の支援を受けたバビロニアが反乱を起こし、その統治はアッシリア王達の頭痛の種であり続けた。 ティグラト・ピレセル3世以降、バビロニアの反乱に直面しなかった王はほとんどいない。 にがへ侵攻し占領したが、直後に死去。 は即位直後にバビロニアに離反され、 ()やバビロニア再征服が続く中で死去し、が後を継いだ。 の時代にはにまでその領域が広がった。 この時代のにおけるアッシリアの行動は達によってに記録されている。 がエラムを滅亡( ()、)させたものの、アッシュールバニパル治世後半からこうした巨大帝国も急激に衰退し、彼の死後20年あまりでアッシリアは滅亡してしまう。 この衰退の原因が何であるのかは分かっていないが、王家の内紛や広大な領土・多様な被征服民族を統治するシステムの構造的な問題が噴出したものとも考えられている。 北方から等の外敵に圧迫され、領内では各所で続発する反乱を抑える事が出来なくなっていき、にはが独立してその勢いはさらに増した。 に新バビロニアやの攻撃を受けて首都ニネヴェが陥落した()。 亡命政権がに誕生し、が即位、エジプト王と同盟を結んで新バビロニアと抗戦するもにはこれも崩壊し、アッシリアは滅亡した。 だが、アッシリアに続く新バビロニアやメディア、はアッシリアの行政機構の多くを取り入れた。 社会・経済 [ ] 史料豊富な新アッシリア時代ではあるが、この時代の経済に関する情報は王や高級官僚などに関係したものに偏っており、民間経済の実態は不明点が多い。 帝国の主な収入源となったのは各州からの税収、属国からの貢納、そして遠征の際の略奪で得た戦利品であった。 税は主に農産物とが徴収されたほか、一定期間の労役義務(軍務の場合もある)が課せられ、最も基本的な税源となった。 都市間の流通に対しては帝国内の各都市で関税をかけたが、その規模はよくわかっていない。 戦争による戦利品獲得は、特にの供給と言う面で重要であり、歴代のアッシリア王が行った大規模建築の数々は奴隷労働力の存在を抜きにしては語り得ないものである。 相次ぐ強制移住は古代オリエント社会に甚大な影響を及ぼしたが、その例の一つがに関する影響である。 アラム人はシリア地方を中心に幾つかの国家を作っていたが、アッシリアは彼らを征服した後、帝国各地に強制移住させた。 自然移動と相まってアラム人はオリエント全域に居住することになり、が国際商業言語となる下地となった。 文化 [ ] 人頭有翼牡牛像 アッシリアの拡大と集積する富によって多くの文化が花開いた。 新アッシリア時代に特徴的な彫刻として、宮殿などの入り口を守る人頭有翼牡牛像があり、各地で発見されている。 また宮殿を飾った浮き彫り彫刻は、主にアッシリア王の狩猟シーンや戦争の場面が描かれており、当時の様子を知ることのできる一級の史料でもある。 アッシュールバニパルのライオン狩り彫刻は、その写実性や野生動物の筋肉の表現の秀逸さなどから、アッシリア芸術の最高傑作の一つといわれる。 そして、王が古代メソポタミア各地の文書史料を集めさせて作らせた史料は、古代オリエント史を調べる上であまりにも貴重な史料を現代の学者に提供することになった。 この図書館からは当時の学問や行政、更に私生活に関する文書が25000点以上発見されており、アッシリアの知識の集大成とも言うべき存在である。 軍事 [ ] ニネヴェから出土した馬銜(Pergamon Museumベルリン) 時代による変化はあるが、アッシリア帝国の時代、アッシリア軍は 中央軍と 地方軍からなっていた。 地方軍の指揮権は各州の長官にあり、兵の補充や補給も各州の権限で行われた。 この地方軍には被征服国の軍も編入されたが、当然反乱の温床ともなり、それに対応するために一つ一つの州は非常に細分化されていた。 中央軍は王の直属とされ、「王の結び目」と呼ばれたが、そのトップにいたのはの長官であり、王に代わって指揮をとることもあった。 中央軍の編成は10人を最小単位とし50人隊、100人隊という編成を取る古代のセム系民族に一般的な部隊割りを採用している。 王は儀式として閲兵式を取り行ったことも知られており、閲兵のための砦も建設され、平時の武器の貯蔵庫としての役割も果たした。 兵科は(槍兵、弓兵、盾兵)、戦車()、などで編成された。 この他に現代でいうところのに相当する部隊も存在し、渡河や城攻めで大きな役割を果たした。 特にアッシリア軍は弓兵を多く用いたという。 盾兵は敵の弓矢から味方の兵士を守るために大型の盾を装備した部隊であり、弓兵とセットで運用された。 戦車部隊は中アッシリア時代に恐らくミタンニのそれを参考にして採用されたと考えられ、アッシリア帝国期でも重要な兵科であった。 特に「足の戦車」と呼ばれた王直属の戦車部隊は親衛隊とも言うべき役割を担う部隊であった。 鉄の武器を使用し、東方高原から輸入した軍馬を用いた騎兵はこの時代に新たに導入された兵科である。 当時はまだ、などの馬具が発明されておらず、後の時代の騎兵に比べて運用は困難だったと予想されるが、重要な兵科としてすぐに広まった。 アッシリアの浮き彫りの中には馬上から弓矢を射る弓騎兵や、槍を構えて突撃する騎兵の姿を写したものがあり、当時の戦争の様子を知ることができる。 兵員数は最も多い時で200000人と当時の記録にはあるが、誇張であるとの説も根強い。 しかし考古学者の予想する兵員数は数の開きが多く、最も少ない見積もりでは50000人程度とする説もある。 正確なところは不明であるがしかし、シリア地方の諸国家の軍が時に数十人から数百人規模で記録されていることを考えれば、少なく見積もっても当時としては圧倒的な兵員数を誇ったことは間違いない。 アッシリア帝国滅亡後のアッシリア人 [ ] ニネヴェなど、アッシリアの主要な都市の幾つかはアッシリア帝国滅亡時に破壊された。 の時代にはそこに住む者はいなかったという。 だが、アッシリア人自体はある日突然絶滅するわけも無く、アッシュール神に対する祭祀も継続されたと考えられる。 アッシリア人自身が支配者として君臨することはその後二度となかったが、アッシュールやシャルマヌ、ニヌルタなど、アッシリア人が好んで名前に使った神の名を持つ人名がその後も役人などの名前として記録されている。 アケメネス朝から時代にかけて、アッシリア人の多くはアッカド語(アッシリア語)ではなくを使用するようになったと考えられる。 その後もアッシリア人と思われる人名が時代にまで登場する。 だがこの生き残ったアッシリア人と、アッシリア人の末裔と主張するいわゆる現代アッシリア人の関係は必ずしも明白ではない。 現代アッシリア人に限らず、の共同体は起源譚として古代オリエントの民族を持ち出す事が多い。 古代オリエント世界の古典文学の多くが後代に受け継がれず土に埋もれていく中、アッシリア人の歴史の多くも人々から忘れ去られたが、旧約聖書や達の記録によって僅かに後世に伝えられた。 楔形文字の解読によって再びアッシリア人が歴史に大きく取り上げられるようになるのは以降のことである。 アッシリアの君主 [ ] 詳細は「」を参照 『旧約聖書』とアッシリア [ ] 『』はアッシリアについて著述された文献のうち後代まで継続して受け継がれた数少ない文献の一つである。 『旧約聖書』の中でアッシリアは外敵として描かれる。 取り分け『』の中の記述では、アッシリアがイスラエルに攻め込んだ様、そしてやがそれにどのように対応したかが、宗教的修飾を伴うものの詳しく叙述されている。 概略はプル王()がイスラエルに侵攻して以来、イスラエルとユダの王が時に貢物を贈って災禍を免れたことや、アッシリア統治下でイスラエル人達が各地に強制移住させられたこと、そして元の土地には入れ替わりにバビロニアなど各地の人間が入植させられたことが記述されている。 また、『』の中ではがアッシリアに罰を下すであろうこと、そしてアッシリアを恐れてはならないことが主張される他、『』と『』では将来のアッシリアの滅亡が預言される。 これらからは当時の被征服者達の対アッシリア感情の一端を垣間見ることができる。 さらに、『』では被征服者から怨嗟のまなざしを投げかけられるアッシリアの都ニネヴェですら、ヤハウェ神の愛が及ぶことを説くことで、イスラエル人部族連合体の神から全世界を統べる唯一神への、ヤハウェ神概念の拡張が表現されている。 『旧約聖書』のアッシリア観は近現代の研究者達にも多大な影響を与えた。 現在、においては、信仰的な理解で『旧約聖書』を扱うことは一般的ではないが、古代の記録としての『旧約聖書』が極めて重要な史料であることに関しては疑いを入れる余地はない。 またアッシリア王の名前は『旧約聖書』の表記に基づいたものが広く普及している(例えばセンナケリブはアッシリア人自身の用いたアッカド語ではシン・アヘ・エリバ、となる)。 関連項目 [ ]• 外部リンク [ ]• (英語).

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アッシリア帝国ってすごく残酷でしたよね。

アッシリア 王国

第39代 シャムシ ・ アダトの時代に王名表に書き入れられたらしい。 (アモリ系の部族名にちなんだ名も記されているという) 1. トゥディヤ ( 在位年代 不明) 2. アダム ( 在位年代 不明) 3. ヤンギ ( 在位年代 不明) 4. サフラム ( 在位年代 不明) 5. ハルハル ( 在位年代 不明) 6. マンダル ( 在位年代 ; 不明) 7. イムツ ( 在位年代 不明) 8. ハルツ ( 在位年代 不明) 9. ディダヌ ( 在位年代 不明) 10. ハヌ ( 在位年代 不明) 11. ズアブ ( 在位年代 不明) 12. ヌアブ ( 在位年代 不明) 13. アバズ ( 在位年代 不明) 14. ベル ( 在位年代 不明) 15. 17.アピアシャル ( 在位年代 ; 不明) 18.ハレ ( 在位年代 ; 不明) 19.サマヌ ( 在位年代 ; 不明) 20.ハヤヌ ( 在位年代 ; 不明) 21.イル ・メル ( 在位年代 ; 不明) 22.ヤクメシ ( 在位年代 ; 不明) 23.ヤクメニ ( 在位年代 ; 不明) 24.ヤズクル ・イル ( 在位年代 ; 不明) 25.イラ ・カブカブ (イラ ・カプカプ) ( 在位年代 ; 不明) 第39代 シャムシ ・ アダドの改竄による王の名。 彼は、自分の簒奪を正当化するために 自分の父の名を、時代をさかのぼって数百年前の王の名に書き入れた。 アッカド時代のイシュタル神殿から出てきた石板(アッシュールで発見された)。 父ダキキの名は王名表には載っていないが、その役職とされる「伝令」とは、特別な職業だったらしい。 28.キキヤ ( 在位年代 ; 不明) アッシュール市の城壁を初めて築いた王とされる。 29.アキヤ ( 在位年代 ; 不明) 30.プズル ・アッシュール 1世 (前21世紀 初め ) 本によっては、この王が「ウル第三王朝」「イシン王朝」から独立し、アッシリアの独立王朝を建国した、と書いてある。 31.シャリム ・アフム ( 在位年代 ; 不明) 32.イル ・シュマ ( 在位 ; 前21世紀 なかば ) バビロン第一王朝の祖スム ・アブム (在位;前2057〜2044) と争う (?)。 この王の時代、アッシリアはバビロニアやティグリス河以東の地方に「自由を確立した」。 33.エリシュム 1世 ( 在位年代 ; 不明) 碑文が多い(17点)。 36.プズル ・アッシュール 2世 ( 在位年代 ; 不明) 37.ナラム ・ シン ( 在位年代 ; 不明) アッカド王朝の同名の名高い「ナラム ・シン」 (在位;前2254〜前2218) と、どのような関係があるかは不明。 祖父のサルゴンがアッカドのサルゴン大王と混同されることが多かったため、こちらも混同されて王名表の中に書き入れられてしまったのではないか。 また、同時期の都市エシュヌンナの支配者にも、同名の人物がいたらしい。 38.エリシュム 2世 ( 在位; 前1920〜前1900) シャムシ アダドに王位を簒奪される。 この時期、アッシリアは弱体化しきっていた。 (なお、この支配年代は、とあるサイトで見つけてきたものなんだけど・・・ 間違っているよね。 父の名は「イラ ・カブカブ」・・・アモリ系小王国の王。 シャムシ アダドはそれまでの「アッシリア王国」を滅亡させたが、みずから新王朝を開くようなことをせず、 王名表を改竄することで、自分がアッシリアの由緒正しい後継者である、とアピールした。 領土を 西方へ拡大 ・・・・マリ王国を併合したことを手始めに、シュバト・エンリル、テルカ、エカラトゥム、カラナ、シュシャラなどを獲得し、メソポタミア全域に及ぶ支配権を確立。 広大な広大な領土の支配の権限を二人の息子に分割して与えた。 ・自分;アッシリアの中央にある都市「シュバト・エンリル」。 ・長子イシュメ・ダガン ・・・・ 「エカラトゥムの王」 (エシュヌンナ等の外敵に対する備え) ・次子ヤスマハ・アッドゥ (イアスマダ ・アダド) ・・・・ 「マリの王」 (シリア方面に対する備え) シャムシ アダドが死去すると、バビロニアのハムラビ王の援助を受けて、ヤスマハ アダドはマリから追い出され、旧・マリ王国の遺児ジム・リリムが返り咲く。 「世界の王」という称号を使用する。 (ごくまれに) 首都の物価を制定。 4g)に対し、穀物2クル(504リットル)、羊毛1シェケル5ミナ(7. 5kg)、油1シェケル2セア(16. 4グラムなのに羊毛1シェケル5ミナが7. 5キログラムって、どういう単位なんだ、ミナ。 この王が死ぬ前後までバビロン第一王朝のハムラビ (位;前1792〜前1750) が「シャムシ ・アダドに」臣従していた(らしい)。 40.イシュメ ・ダガン 1世 ( 在位; 前1780〜前1741 /39年間 ) 前1762年から、バビロン第一王朝の ハムラビ王がメソポタミアの大外征を開始し、一時期強大な勢力を誇り、アッシリアはたびたびこれに敗れた。 前1759年にはアッシリアはバビロニアに併合されている。 (前1740頃〜前1363年) 北西の大国・ミタンニ王国の圧迫を受ける。 この時代、アッシリアの王の名前のみがかろうじて分かっている程度で、それ以外の資料は極端に少ない。 アッシリア王家の中では、王位簒奪が相次いだらしい。 しかし、この時代に長い服従の期間と独立への抗争を地道に重ねたことにより、アッシリアは「それまでの商業重視の性格から 軍事主義的性格 を鍛えていった」という。 41.アッシュール ・ドゥグル ( 在位; 前1741 ? 〜?) 「名前のない人の息子」。 42〜46. 5人の王(名は不明) 47.アダシ王 ( 在位年代 ; 不明) 48〜55. 8人の王(名は不明) 56.エリシュム 3世 ( 在位年代 ; 不明) 57.シャムシ ・アダト 2世 ( 在位年代 ; 不明) 58.イシュメ ・ダガン 2世 ( 在位年代 ; 不明) 59.シャムシ ・アダト 3世 ( 在位年代 ; 不明) 60.アッシュール ・ニラリ 1世 ( 在位; 前1540年 ごろ ) わずかに、破壊された神殿・王宮の建造・修理の記録が残っている。 61.プズル ・アッシュール 3世 ( 在位 ; 前1540年 ごろ〜 ?) 前1500年ごろ ? 、バビロニア・カッシート王朝のブルナ ・ブリアシュ1世と、国境の確定をした。 62.エンリル ・ナツィル 1世 (エンリルナシル) ( 在位年代 ; 不明) 63.ヌル ・イリ ( 在位年代 ; 不明) 中央公論社の『世界の歴史1 人類の起源と古代オリエント』には、この間に 「アッシュール ・ シャドニ」「アッシュール ・ ラビ1世」「アッシュール ・ ナディン ・ アヘ1世」「エンリル ・ ナツィル2世」 ( 在位 ; 前1430〜25) の4人の名が加えられている。 (即位代の番号は振られていない) アッシュール・ナディン・アヘ1世は、エジプトと同盟を結び、エジプト王から黄金を贈られた。 なぜこれらの王の名が「王名表」に含まれていないのかは、不明である。 66.アッシュール ・リム ・ニシェシュ ( 在位 ; 前1408〜1401) 67.アッシュール ・ナディン ・アヘ(アケ) 2世 Asshur - nadin - akhe ( 在位 ; 前1400〜1391) 独立君主として、エジプト君主と文通。 それまではアッシリア人は、自分たちの土地を「シュバルトゥ」「スバルトゥ」と呼んでいた。 前1360年、強国・ミタンニ王国の内紛に乗じ、ヒッタイトの シュッピリウマ王と共同で、ミタンニ王トゥシュラッタを破り、その後トゥシュラッタが宮廷内の内乱で暗殺されたため、今度はフルリ王アルタタマと共同で、ミタンニの領土を分断してしまった。 エジプト王に戦車・馬・ラピスラズリを贈り、お返しに黄金を贈られる。 当初バビロニア王 ブルナ ・ ブリアシュ3世はいまだにアッシリアを自分の属国とみなしていて、アッシュール ・ウバリトがエジプト王 アメンホテップ4世を「兄弟」と呼ぶつきあいを開始したとき、「なぜアッシリアが勝手にエジプトに行ったのか(自分には理解できない)、エジプトがもしバビロニアを愛するならば、アッシリアにどんな商売もさせないように」という脅しの内容の書簡を送っている(アマルナ文書)。 しかしまもなくバビロニアもアッシュールウバリトが強大な権力を有していることを認めざるを得なくなり、アッシリアの皇女を自分の息子の嫁として迎えた。 バビロニア王ブルナブリアシュ3世の死後、王となったその孫が暗殺されると、アッシュールウバリトはバビロニアの内政に干渉し、自分の曾孫クリガルズを王位につけた。 70.エンリル ・ニラリ ( 在位; 前1327〜1318) or. ( 在位; 前1340〜1326 ごろ ) ????? 父がバビロニア王位につけたクリガルズと、激しく争う。 「神の代行者」である王が、初めて 「リンム職」 (市民の中から毎年くじで選ばれる俗権の代表者) に就任する。 71.アリク ・デン ・イリ (アリク ・デーン ・イル) ( 在位; 前1317〜1306) このころ、シリア方面からアラム人が進入し、またスティ人やアフラメ人も登場し、王たちはその対応に忙しくなった。 72. アダド ・ ニラリ 1世 ( 在位; 前1305〜1274 /31年間 ) 征服活動。 西方;ハルラン、カルケミシュを占領。 東方;バビロニアからラピク以北を奪う。 ハニガルバド (旧ミタンニ=シリア北部) の王シャトゥアラ1世を捕虜に、朝貢を課す。 その後ふたたび同地に進軍し、シャトゥアラの子ワサシャッタを破り「アッシリアに反逆した」という理由で、多くの王族をアッシュールに連行する。 アダドニラリが ヒッタイト王ムワタリに「兄弟」と呼びかけた書簡に対しヒッタイト王は不快を示し、「なぜ私がお前に兄弟と呼ばれなければならないか、私とお前が同じ母親の腹から生まれたとでも言うのか」という書簡を返している。 それまで慣例として使われていた王の称号「エンリルの代官」「神アッシュールの副王」のほかに、かつてシャムシアダドが使った称号「世界の王」を復活させる。 (以後、慣例化) 73. シャルマネセル 1世(シャルマナサル) ( 在位; 前1273〜1244 /29年間 ) 上のアダドニラリがおこなった、ハニガルバドの王シャトゥアラの対する勝利は、シャルマネセルの業績とする本もある。 ハニガルバドは、ヒッタイトやアラム人と結んでいたため、アッシリアはそれらとも争うようになる。 アッシリアに対抗して、ヒッタイト王ハットゥシリ3世はバビロニア王カダシュマン ・トゥルグと条約を結んだ。 東北部のウルアトリ (のちのウラルトゥ) をとりあえず平定する。 東方の山岳部族クタ人 (グティウム人) を討って、莫大な戦利品を得る。 バビロニア軍を殲滅。 カルフ (要害の地 ;大ザブ河とティグリス河の合流点) に第二の王宮を建造。 74. トゥクルティ ・ ニヌルタ 1世 (ツクルチ ・ ニヌラタ) ( 在位; 前1243〜1207 /36年間 ) 前1232年、バビロニア占領。 バビロニア王カシュ・ティリアシュをアッシュールに連行。 アッシリア王が短期間バビロンを直接統治したのち、 (1年半後に叛乱が起こったので、バビロンを焼き払ってマルドゥク神殿の神像を略奪した後) 、傀儡政権をバビロニアに立てる。 『トゥクルティ・ニヌルタ英雄叙事詩』 ・・・対バビロニア戦の武勲。 アッシリアに代々うたわれる。 「彼の力は栄光に満ち、前後の不敬な者を焼き焦がす。 彼の激しさは燃え立ち、左右の従わざる者を焼き尽くす。 彼の輝きは恐ろしく、全ての敵を打ち破る。 彼は四方の隅まで征服し、王たちはひとりのこらず恐れて生きる」 都市アッシュールに巨大な新王宮を建造したが、どうしたわけか彼自身はこれを使用しなかった。 さらにアッシュールの郊外に、新都カール・トゥクルティ・ニヌルタ (=トゥクルティニヌルタの港) を建造。 新都造営には強制連行された被征服民を使用。 しかし王の死後、この新都は打ち捨てられる。 ギリシャの伝説中で「ニノス王」と呼ばれる。 息子のひとりに 暗殺される。 略奪されたマルドゥクの神像の神罰、とうわさされる。 76.アッシュール ・ニラリ 3世 ( 在位; 前1202〜1197) 77.エンリル ・クダリ ・ウスラ ( 在位; 前1196〜1191) 78.ニヌラタ ・アッパール ・エクル ( 在位; 前1191〜1179) 79.アッシュール ・ダン 1世 ( 在位; 前1178〜1133) 80.アッシュール ・レシャ ・イシ 1世 (レーシュ ・イシ) ( 在位; 前1132〜1115) バビロニア、グティウム人、アラム人、ルルビ人を討つ。 81.ニヌルタ ・トゥクルティ ・アッシュール (ニヌラタ ・ツクルチ ・アシュル) ( 在位; 前1115〜1114) 82.ムタッキル ・ヌク (ムタキル ・ヌスク) ( 在位; 前1115〜1114) 第81代と第82代の在位年代が重なってるんですよねー。 どうして? 83. ティグラト ・ ピレセル 1世 (チグラス ・ピレセル) ( 在位; 前1114〜1076 /38年間 ) ヒッタイト帝国崩壊後に出現したムシュキ人、カシュキ人を討つ。 北方のナイリに3度進出。 アッシリア王として 「初めて地中海まで進出」。 「ユーフラテス川を28回渡った」 ・・・シリアに14回遠征したことを意味する。 富裕なフェニキア都市アルワドに入城し、エジプト王から贈り物を得る。 タドマル(=パルミラ)、スヒなどのアラム人を、何度も討伐。 マルドゥク・ナディン・アヘ王を攻めて、バビロンを焼き払い、バビロニアを臣従させる。 地中海の海豹狩り、シリアの象狩り、獅子狩り、などのスポーツを好む。 農業の保護・奨励、行政制度の改正、神殿・王宮の造営、などの政策。 「ハムラビ法典」などをを手本とした 「中期アッシリア法典」の編纂。 『宮廷法令集』、『ハレム法令集』。 ;女性に関する条項が多く、女性の人権保護の様子がうかがえるという。 しかしまもなくアラム人の侵入と、大飢饉が重なり、アッシリアの国力は大きく後退。 ティグラト・ピレセルも暗殺された。 84.アシャレド ・アピル ・エクル (アシャリド ・パル ・エクル) ( 在位; 前1076 (?) ) or ( 在位; 前1075〜74) 85.アッシュール ・ベル ・カラ ( 在位; 前1076〜1057) 86、87. 王の名は不明 88.シャムシ ・アダド 4世 ( 在位; 前1053〜1049) 89〜93. 5人の王(名は不明) (前1049〜1010) 94.アッシュール ・ラビ 2世 ( 在位; 前1010〜970) 95.アッシュール ・レシ ・イシ 2世(アッシュール ・レーシュ ・イシ) ( 在位; 前969〜967) 96.ティグラト ・ピレセル 2世 (チグラス ・ピレセル) ( 在位; 前966〜935) 97.アッシュール ・ダン 2世 ( 在位; 前934〜912) ふたたびアッシリアの勢力拡大開始。 このころアッシリアの統治政策として、被征服民の 強制移住が、以前にもまして活発におこなわれるようになる。 99.トゥクルティ ・ニヌルタ 2世(ツクルチ ・ニヌラタ) ( 在位; 前890〜884) 北方の「前人未踏の地」まで攻め入る。 ユーフラテス河中流域まで平定。 「あらゆる敵を殲滅し、敵の死骸を杭に刺す」 100. アッシュールナツィルパル 2世 (アッシュールナシルパル、アッシュール・ナツィル・アプリ) ( 在位; 前883〜859 /18年間 ) 大征服王。 アッシリアを軍事的征服国家の方法へと進めた。 精力的で残酷な征服王として、典型的なアッシリア君主。 反抗する敵に対しては徹底的な破壊でもってむくい、服属民には重い貢納を課す。 従来の2頭立て2人乗りの馬車を、3頭立て3人乗りの馬車に改造して、戦車隊の攻撃力を倍増させる。 初めて戦車隊に代わる 「騎兵隊」を創設。 官制の改革もおこなう。 反抗した敵に対しては 徹底的な破壊政策で応じたので、シドン、ビュブロス、アルワドのフェニキア都市は、王の軍が近づいてくるだけで朝貢した。 「ティグリス河の彼岸から大海 (地中海) に至る、全ラケおよびスヒを、 (バビロニアとの境の) ラビクに至るまで征服し、スブナト水源からギルザンまで、下ザブ河の彼岸からザバンの上のティル・バリまで、ティル・シャ・アブダニからティル・シャ・ザブダニまでの地方を」征服した。 首都を ニネヴェから カルフ (現在のニムルド) に遷都し、新しい大王宮を建造。 どうでもいいことですが、アッシュールナシルパル「1世」、というのはどこにいたの?????? 101. シャルマネセル 3世 ( 在位; 前858〜824 /34年間 ) 父の遺策を継いでさらなる領土の拡大政策を推進。 しかしシリア (アラム人と新ハッティ人の諸国) に遠征したとき、カルケミシュやアレッポは進んで降伏したが、ダマスクス王国のビル・イドリ王 (旧約聖書のベン・ハダド) はイスラエルの十二王と同盟して、激しく抵抗した。 前854年、カルカルの戦い ・・・ アッシリアとダマスクスの両軍が、大損害をこうむる。 ヘルモン河の戦い ・・・ シュルマネセルはダマスクス王ハザエルの守る堅城を落とすことが出来なかったため、ハウランまでの周辺の土地を荒らし回った。 これに畏れて、シドン、ティルスなどのフェニキア都市と、イスラエル諸王のうちイェフはアッシリアに朝貢。 小アジア(キリキア、タバル)に対する遠征。 北方の ウラルトゥが強大になってきたので、何度か遠征したが、あまり効果は無かった。 バビロニア王に反逆したその弟を討つためにバビロンに遠征し、これを見事討ってバビロンの神殿で祭祀をおこない、バビロンにおけるアッシリア王の名声を強化する。 晩年、息子アッシュール ・ダニン ・アプリが叛乱を起こし、これは帝国全土に広がって王に対する大叛乱となった。 王はこれを鎮圧することが出来ず、カルフの王宮で、ひとりさびしく死んだ。 ところで、どうでもいいんですけど、シャルマネセル「2世」というのは、いったいいつ・・・・・・ 102.シャムシ ・アダド 5世 ( 在位; 前823〜811) 父シャルマネセルを死に追いやった兄の叛乱を、バビロニアの援助を借りて鎮圧。 しかし、内政は混乱し、地方代官(官僚)の権力が増大した。 なかには独立国のように振る舞う臣下も出現。 103.シャミラム ( 在位; 前811〜806) 104.アダド ・ニラリ 3世 ( 在位; 前806〜783) 幼年で即位したので、 母サムラマト (セミラミス、シャムシアダド5世妃 ・・・セミラーミデ?) が、摂政として後見。 (摂政の実状は不明) この賢明な母サムラマトのはなしは、のちにギリシャで伝説となった。 『女王セミラミス』 4年後に王が親政を始めると、西方遠征のためにバビロニアの援助を得るため、バビロニアの神をアッシリアで祀ることを始めた。 ダマスクス王マリ (ベン・ハダド3世) およびフェニキア諸都市はアッシリアに貢納。 ウラルトゥが強大化し、とくに王 メヌアシュ (位;前810〜?) がアッシリアに大きな脅威。 カルフの代官ベール・タルツィ・イルマの碑文によると、神ナブーのみを崇めようとする「唯一神信仰」の動きがあったらしい。 105.シャルマネセル 4世 ( 在位; 前782〜773) 106.アッシュール ・ダン 3世 ( 在位; 前772〜755) 107.アッシュール ・ニラニ 3世 ( 在位; 前754〜745) ニラニ??? 3世??? アッシュールニラリ3世は別にいるしなあ・・・・。 108. ティグラトピレセル 3世(トゥクルティ・アパル・エシャラ) ( 在位; 前744〜727 /17年間 ) 王位簒奪者であったと考えられている。 (王の碑文の中に父親の名前がないから) 即位後、地方行政制度を改革し、州の規模と総督の権限を縮小、都市の特権を廃止。 主として被征服民から成る 国王常備軍を創設して、軍隊の強力化をはかる。 戦車の改造、攻城兵器の開発。 征服戦争の方針を改め、征服地の徹底破壊をおこなわずに出来るだけ被征服民のアッシリア領内への強制移住をさせるようにした。 アッシリア領内の荒れ地の開拓をさせ、王室財政の安定に貢献させる意図。 前735年までに、北方の強国ウラルトゥの王シャルドゥリシュ2世と戦ってこれを制圧。 (その後ウラルトゥは北方のキンメリア人によって、滅亡) シリアでは3年間アルバドを包囲して陥落させ、前738年までにダマスクスのラスンヌ、サムアルのパナンム、サマリアのメナヘム、などをむこうから降伏させた。 前734年、 ユダのアハズ王の懇願を受けイスラエルに進軍、ラスンヌとイスラエルの王ペカと戦って殺し、大量の捕虜を得る。 (ユダのバビロン捕囚) このユダヤ人王国同士の争いを「シリア・エフライム戦争」という。 さらにシリアのアラム人の王国とバビロニアを破って属領とし、さらに南方のガザやアラビアまで遠征して、ベドウィンとも戦った。 進取の気風に富んだやり手の人物で、農民や商人を慈しんだと言われる。 旧約聖書では「プル」 (ピレセルを短縮した、バビロニアによる蔑称) とも記されている。 そのあとティグラトピレセルという名前でも登場するので知らなかったら、別人かとも思うね。 109.シャルマネセル 5世 ( 在位; 前726〜722) 父王が死ぬやいなやイスラエル王が態度を変えて反抗しだしたため、シャルマネセルは怒り狂ってイスラエルに攻め込み、王ホシュアを捕らえ、首都サマリアを包囲し、ついにイスラエル王国は滅亡した。 しかし、旧約聖書にはサマリアを陥落させたのはシャルマネセルと記されているが、史実ではそれをおこなったのはサルゴン2世である。 即位後、首都カルフを棄て、新たに 新都ドゥル・シャルキン (「サルゴンの砦」、現在のコルサバード) に遷都。 ティグラトピレセルが農民・商人などの市民を重視したのに対して、サルゴンは神官たちの歓心を買うことに努めた。 即位直後の、王に対するシリア・イスラエルの反乱に対し、ふたたび難なく鎮圧。 前721年、 バビロニア王メロダク・バラダン2世 (カルデア部族の首領) の独立。 ; 東方のエラム人がバビロニアを支援。 前709年、サルゴンは苦戦の末、バビロンを陥落させるが、バビロン王は 行方知れずに。 アナトリア方面 ; フリュギア人の王ミダスとの戦い ; 前709年に北方のキンメリア人に対抗するために和睦。 対ウラルトゥ ; 苦戦。 アナトリア諸都市とウラルトゥが同盟してアッシリアに当たる。 サルゴンはウラルトゥ戦役のさなかに死去。 111. センナケリブ (サンナケリブ、シン ・ アヘ ・ エリバ) ( 在位; 前704〜681 /23年間 ) 「シン・アヘ・エリバ (センナケリブ) 」とは、「月の神シンが (死んだ) 兄弟たち (複数形) の代わりを与えてくれた」の意。 皇太子時代からめざましい戦功をあげ、才能ある若者だったが、父に似ず 我儘で無鉄砲だった。 先王の都;ドゥル・シャルキンを廃棄し、あらたに ニネヴェに新王宮を建設。 バビロニア ; メロダク・バラダンの復活。 アッシリアの代替わりを機に挙兵。 センナケリブはバビロニアに遠征。 メロダク・バラダンはまたも逃亡し、行方知れずに。 バビロニア王家のベール・イプニを傀儡としてバビロニア王としたが、やがて反逆したのでこれを討ち、今度は 嫡子アッシュール ・ ナディン ・ シュムをバビロニア王とする。 前689年、バビロニアの ムシェジブ ・ マルドゥクが エラム王ウンマン ・ メナヌと計って挙兵。 アッシリア人バビロニア王アッシュール・ナディン・シュムはエラムの王都に連れ去られ、消息不明に。 ハルレの戦い ; センナケリブはバビロニア・エラムの連合軍を散々に打ち破る。 前689年、 バビロンの大破壊。 バビロン史上最大の破壊。 西方 ; シリアのフェニキア諸都市がエジプトの援助を受けて反逆したため、これを征討。 イスラエル ; ユダ王国の王ヒゼキアがシリアと通じたため、ラキシュの戦いで破る。 さらにエルサレムを包囲。 旧約聖書のなかにあるエルサレム包囲の記述によると、アッシリア軍は18万5千の大軍でエルサレムを包囲したが、ヤハウェの使いによって撃たれたため、翌朝にはすべて死体となっていたため、センナケリブは軍を撤退させた、と。 真偽はわからない。 建設・治水工事をつぎつぎとおこない、「センナケリブ運河」を建設し、業績を上げる。 宗教政策 ; いろいろやったらしい。 後継者問題 ; 長子アッシュール・ナディン・シュムがバビロニア戦のさなかに消息不明になってしまったため、代わって末子エサルハドンを後継者に決定したが、これが他の王子たちの反感を買い、王は息子たちの手によって暗殺された。 これもまた、トゥクルティ・ニヌルタの時と同じく、バビロン破壊の時に持ち去ったマルドゥク神像の祟り、と噂される。 112. エサルハドン (アッシュール ・ アヘ ・ イディン) ( 在位; 前680〜669 /11年間 ) 父王が兄弟たちに殺害されたので、エサルハドンはあわてて首都を脱出し、小アジアに潜伏、約1年半かけて兄たちの叛乱を鎮圧。 父王が破壊政策を続けて各地の反乱を招いたことを教訓に、バビロンの復興と帝国の再建に努める。 「大法官の制度」; 宰相として努めるが、一番重要な役割は、王のために帝国各地の情報を収集すること。 キンメリア人が南下してきたので、軍をおこしてこれを阻んだが、敗走する敵を追うことはしなかった。 西方のティルスを包囲したが、力攻めで勝利を急ぐのではなく、持久戦でもって陥落するのを待った。 エジプト遠征 ; シリアとイスラエルが繰り返し反乱を起こすのは、これを支援するエジプトがあるからだと考えた王は、前671年、大軍を率いてエジプトに侵攻。 メンフィスにいたエチオピア朝の王 タハルカと戦ってこれを破り、敗走するタハルカを追って、テーベまで攻め上がった。 しかし、遠隔地エジプトを支配するのはむずかしく、エサルハドンがアッシリアに帰ると反乱を起こしたため、再度大軍を率いて討伐に向かったが、その途上で死去した。 自分自身が病弱だったため、宗教問題に大きな関心を持っていた。 ・・・天文学者、占い師、予言者を重用。 彼らが「いま王の運勢が悪い」と告げると、王はみずから「退位」し、「代理王」を立てて、自分は「農夫」と名乗った。 「農夫」といいながらある程度までの政治はおこない、一定期間が過ぎると「代理王」は王の代わりに殺害され、「王」として殺害された。 そして「農夫」はふたたび王に戻った。 後継者問題 ; 父王の失敗と兄たちの反乱を見たのに関わらず、エサルハドンは長子シャムシ・シュム・ウキンを後継者とはせず、嫡子ではないアッシュールバニパルを後継者と定めた。 ただしこのことに対し、部下たちが不満を持たぬように、王はくりかえし皇太子アッシュールバニパルに対する恭順を示す誓約書を作成し、おおくのその誓約の石版が現存しているという。 それ意外にも、エサルハドンは多くの場面で大量の契約書を作成させる王だった。 113. アッシュールバニパル ( 在位; 前668〜627 /41年間 ) ああ、もうめんどうくさいからを見て(涙)。 アッシリアの黄金時代。 115.シン ・シュム ・リシル ( 在位; 前623?) 116.シン ・シャル ・イシュクン ( 在位; 前623〜612) アッシュールバニパルの息子。 前王を追い払って王位を回復。 北方のスキタイ人に悩まされていたが、東方のメディア王国の王キュアクサレス2世が、このスキタイ人を打ち破る。 ところがこのメディア王が、刃を返してバビロニア王ナボポラッサルとくんでアッシリアを攻めてきたため、シン・シャル・イシュクンはこれと戦ったが、首都ニネヴェを包囲され、ついに陥落。 王は戦死した。 117.アッシュール ・ウバリト 2世 ( 在位; 前612〜?) 首都ニネヴェが陥落すると、アッシリアの残党は西方の都市ハランに逃れ、アッシュールウバリトを旗頭に、エジプトに援助を求めながら抵抗を試みたが、エジプトの援軍は途中イスラエルで撃破され、援助は届かず、前609年にアッシリアの勢力は撃滅された。 ああ、アッシリア! 私が高校生だった頃からこの帝国に入れあげている理由は、なんといっても帝王たちの「名前」の響きの美しさにある、といってもいいでしょう。 「アダトニラリ」「ティグラトピレセル」「アッシュールナシルパル」「シャルマネセル」「センナケリブ」「エサルハドン」。。。。。 ・・・・ ああ、なんて美しい。 一方で「ギルガメシュ」だとか「ハンムラピ」だとか「カダシュマンハルベ」とか「トトメス」だとか「ハットゥシリ」だとか「メロダクバラダン」だとか「ネブカドネザル」とか。。。。。 他地域の王たちの名は、なんと濁々しいことか。 え? どちらも同じに聞こえるですか?? うわはははははは。 およそ1400年間も連綿とその王国が栄え続けたこと、も驚きです。 1400年ですよ、1400年。 3回も長期にわたる衰退期がありながら、ひとつの民族が同じ王朝を名乗り続ける。 国の性質もほとんど変わらない。 こんな国の例は他にはありません。 しかし、 それと同時に、この大帝国の帝王たちには、卓越した「戦争王」がとても多い。 というのも私の関心のもとでした。 アッシリアというと、「戦争王国」として有名ですからね。 ・・・・ ところが、こうして一覧にしてみると、そうでもないですね。 特筆するに足る「王」 (一覧では名前に色が付いている王)を数えてみても、わずか13名なんですよね。 117人のうちの。 しかし言い換えれば、この13人の人物によって、この帝国の名は永遠に人類の歴史の中に輝き続けることになるわけで。 「王名表」を眺めてみると、この117人の名前には、幅広いバリエーションがあって驚きます。 「アッシリア風の」名前というのはひととおり指摘出来ますが、アッシリア風でありながらパターンから外れているもの、なぜか明らかにバビロニア風なもの、それ意外のもの、いろいろあります。 そのなかで、さすが「神の国」アッシリア。 神々の名に由来する名が一番多いので、一応、神々の名と、その他の名前の要素となっている言葉の意味を、挙げておこうと思います。 アッシュール ・・・ アッシュール市の市神。 アッシリアの守護神。 戦闘神。 エンリル ・・・ シュメールの天候神。 バビロニア、アッカド、アッシリアなどで広く信仰される。 アダド ・・・ 天候神。 稲妻と雄牛で象徴される。 ニヌルタ ・・・ 戦闘神。 獅子で表現される。 トゥクルティ ・・・ ???? ティグラト ・・・ って、きっと「ティグリス河」の神格化されたものに違いない(と勝手に)思っていましたが、ティグラトピレセルの正式名は「トゥクルティ・アパル・エシャラ」なそうなので、上の「トゥクルティ」なのだということが判明。 なぁんだ。 シャマシュ ・・・ バビロニアの太陽神。 冥府の神でもある。 「シャムシアダド」の「シャムシ」とも関係あるか? (ないかも) アヘ ・・・ 「兄弟」の意。 アプリ ・・・ じつはこれが一番知りたい。 エサラ??? 「シャルマネセル」=シュルマン神は指導者である。 王名表を作ってみて思ったのですが、実際に業績を列挙していったのですが、あまりにも部族・地域名を表す固有名詞が多すぎて、混乱しますよね。 実際に地図を見て確認しなかせらこれをみると、この帝国が拡大の様が見られて、その巧妙さと歴史の流れが感じられて感嘆するはずなのですが、なかなかそこまで行きませんよね。 今後、それがわかるようにこの王名表を作り直していくのが、わたしの課題です。 また、王名表として王名を列挙するだけでは、この偉大な帝国の特異性は、全然表現できません。 じっさい、アッシリアは幾多の民族、王国が輩出したメソポタミアの中でも、一、二を争うぐらいの異常な民族です。 他の征服王朝と比べて、あんなに周辺地域を荒らし回り、各地の金銀財宝、人材を自国に大量に持ち帰りながら、最初から最後までアッシリアはアッシリアなのは、このアッシリア民族という民族の中に、最初からアッシリアという国を規定する、一貫した規範があったからです。 これは、アッシリアを守護するアッシュールの神が理由だった、と書いてある本もあります。 そして、このように表にしてみると、アッシリアという国の中で「王」が絶対的な、超越的な権力を持っていた、と受け取られると思うのですが、実際にはそれはあまり正しくありません。 王はずっと「王 (神アッシュール)の代行者 (副王)」と名乗っていて、名の通り、宗教的な権威を受け持つ、と考えられていました。 一方で、アッシリアの中で「世俗的な権力の代表者」として『リンム職』というのがあって、アッシリアでは一貫して、王とは別に、市民の中から選ばれていました。 (まあ王の権力が強大化してからはこれはなかば名目的なものになり、最初は公正に市民の中から毎年クジで選ばれていたのに、のちには序列でもってリンムが選ばれるようになり、また70代エンリルニラリ以降は、慣例として王の治世初年だけは王がリンムを兼任するようになりますが)、 さらに王がなにかをしようとしたときは、アッシュール在住の族長(貴族)たちの承認を受けなければならなかったのです。 (後期の王たちが次々と新都を造営したのは、伝統的な勢力を忌避しようとしたからだとされる) それなのに、一番重要なのは、業績を列挙してみると、(皇位継承争いは別にして)王が自国の市民、貴族たちと衝突した、という記述はまったくありません。 たとえば専制的なカエサルやローマ皇帝たちが、元老院や軍隊と衝突し続けたことと、くらべてみてください。 最後に、 やっぱり、名前が不明な王が20名もいるのが気分悪いですなあ。 きっと王名表自体のその部分が失われているのでしょう。 多分、名前が見えないアッシュールナシルパル1世とシャルマネセル2世(とアッシュールニラニ1世と2世????)は失われた中に入っているんでしょうなぁ・・・ 参考文献 『 世界の歴史1 人類の起源と古代オリエント』 中央公論社 著者;アッシリアの部分は 渡辺和子 1998年 ¥2524 これが今、手軽に手に入る本の中では世界一くわしい本。 アッシリア以外にも、他の国々のかなり詳細な王名表が付いていて、洪水のような名前の群れをながめてうっとり。 これ、初めて見たとき、滂沱の涙を流してしまいました(ウソ)。 でも、それだけでも、この本は買う価値があります。 写真はカラーだし、地図も豊富だし、巻末資料文献(のタイトル)も豊富ですしね。 『西洋の歴史 〔古代・中世編〕』 ミネルヴァ書房 著者;アッシリアの部分は山本茂が監修。 この本が出たのは昭和28年なので、その後アッシリア学は大いに進展しているに違いなく、これもどの程度信用できるか心配なのですが、この本にしか載っていない情報も多くて。 センナケリブの項、「才能ある若者だったが、父に似 ず我儘で無鉄砲だった」って、その根拠は。 『 生活の世界歴史1 古代オリエントの生活』 河出書房新社 アッシリアの部分の著者は佐藤進 1991年 ¥660 題名の通りですが、アッシリアに関わらずオリエント全体の古代生活が多くて、楽しい。 この章は非常に情報が詳細で、ここに書いてあることを要約するだけで、エサルハドンだけでこのページの文字数を超えてしまいそうなほどだ。 とても楽しく読んだのだけれど、思い切ってこの本から得た情報は、すべて省略しました。 専門書は全然読んでないので分からないのだけど、アッシリアで出土した石版をすべて読めば、アッシリアの君主ひとりひとりについて、こういうふうに人物像に迫った記述が出来るのでしょうなあ。 ああ、悔しい。 わたしの作ったこのリストでは、一番触れたかったひとりひとりの性格について、全然触れていないですから。 文章中、『メソポタミアの三大女傑』と書かれてある部分に、注目。

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