長州 藩。 長州藩 京都通百科事典

長州藩(萩藩)のご先祖調べ 〜家系図作成からルーツ調べ

長州 藩

山口県は、江戸時代は「長州藩」と呼ばれていた。 長州藩士であり思想家でもあった吉田松陰は1857(安政3)年から2年半の間、下級武士や庶民の子弟を教育するための私塾・松下村塾を主宰。 倒幕思想を掲げた松陰は1859年の「安政の大獄」で刑死するが、その思想は松下村塾門下の高杉晋作、伊藤博文、山縣有朋らに受け継がれ、明治維新の原動力となった。 維新後の明治新政府では、伊藤や山縣が権力を握り、大正期まで長州藩と薩摩藩の出身者が交代で政権を担う藩閥政治が続いた。 戦後、山口県出身で最初に首相になった岸信介氏は安倍首相の母方の祖父。 非核三原則提唱、沖縄返還実現などでノーベル平和賞を受賞した佐藤栄作氏は、信介氏の実弟(信介が父方の実家の養子となったため名字が異なる)で、安倍首相にとっては大叔父にあたる。 佐藤家もさかのぼれば長州藩士だ。 安倍晋三首相は、「尊敬する人物」として、演説やブログなどでたびたび吉田松陰に言及しており、没後160年を経て、今なお影響力を持っている。 山口県が時代の変り目に関わったのは明治維新ばかりではない。 平安時代、現在の下関市で繰り広げられた「壇ノ浦の戦い」では、それまで栄華を誇った平家が滅亡し、貴族社会から武家社会への転換点となった。 現在の下関はフグの取扱量日本一の町として名を馳せる。 猛毒を持つフグは、豊臣秀吉の時代に食用禁止令が出されるなど、危険な魚として知られていた。 1888年、下関を訪れた初代首相の伊藤が、地元で食されていたフグのおいしさに感銘を受け、県令(県知事)に働きかけて食用解禁を実現した。 これがきっかけで、全国にもフグ食が広まったとされる。 食文化でも、時代の転換に関わっている。 バナー写真:山口県萩市にある松下村塾は、2015年にユネスコの世界遺産に登録された「明治日本の産業革命遺産」の構成資産の一つ(時事).

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長州藩とは?場所は何県?家紋や有名人、藩主など長州藩の歴史を解説!

長州 藩

一文字に三つ星 藩主のはの四男を祖とする一族。 鎌倉時代に、越後国佐橋荘を領した毛利経光は、四男のに安芸国吉田庄を分与し分家を立てる。 時親の子・、孫の親衡は越後に留まり安芸の所領は間接統治という形をとったが 、南北朝時代に時親の曽孫・は安芸に下向し、吉田郡山城にて領地を直接統治 するようになる。 にが出ると一代にしてからに脱皮、の所領の大部分との所領を併せ、最盛期には十か国との一部を領国に置く最大級の大名に成長した。 元就の孫のはに仕え、天正19年(1591年)3月、・周防・長門・半国・・半国・・・の112万石を安堵(50万石相当、また以前のでは厳密にこれを行っていなかったことを考慮すると実高は200万石超)され、本拠をからより地の利の良いに移す。 秀吉の晩年にはの一人に推され、では西軍方の名目上の総大将として担ぎ出され西の丸に入ったが、主家を裏切り東軍に内通していた従弟のによりに対しては敵意がないことを確認、毛利家の所領は安泰との約束を家康の側近から得ていた。 ところが戦後、家康は広家の弁解とは異なり、輝元が西軍に積極的に関与していた書状を大坂城で押収したことを根拠に、一転して輝元の戦争責任を問い、所領の約束を反故にして毛利家を処分とし、輝元は隠居となし、嫡男のに周防・長門2か国29万8480石2斗3合 を与えることとした。 実質上の初代藩主は輝元であるが、形式上は秀就である。 また、秀就は幼少のため、当初は輝元の従弟のと重臣の・らが藩政を取り仕切った。 慶長12年()、領国を4分の1に減封された毛利氏は新たな検地に着手し、慶長15年()に検地を終えた。 少しでも石高を上げるため、この検地は苛酷を極め、山代地方(現・)ではも起きている。 この検地では結果として53万9268石余を打ち出した。 慶長18年()、この時に提出する御前帳が以後の毛利家の公称高となるため、慎重に幕閣と協議した。 ところが、思いもよらぬ50万石を超える高石高に驚いた幕閣(取次役は)は、敗軍たる西軍の総大将であった毛利氏は50万石の分限ではないこと(特に東軍に功績のあった隣国の主49万8000石とのつりあい)、毛利家にとっても高石高は高普請役負担を命じられる因となること、慶長10年御前帳の石高からの急増は理に合わないことを理由に、石高の7割である36万9411石3斗1升5合を表高として公認した。 この表高は幕末まで変わることはなかったが、その後の新田開発などにより、実高(裏高)は2年()には65万8299石3斗3升1合、4年()には81万8487石余であった。 13年()には新たに4万1608石を打ち出している。 幕末期には100万石を超えていたと考えられている。 また、新しい居城地として防府・山口・の3か所を候補地として伺いを出したところ、これまた防府・山口は分限にあらずと萩に築城することを幕府に命じられた。 萩は防府や山口と異なり、三方を山に囲まれに面し、隣藩のの出丸の遺構が横たわる鄙びた土地であった。 上述のような経緯もあり、長州藩ではが国是であるとの噂があった。 巷説の一つに、新年拝賀の儀で家老が「今年はの機はいかに」と藩主に伺いを立て、藩主が「時期尚早」と答える習わしがあったとの俗話が知られる。 昭和2年()、歴史学者のが『幕末史の研究』において、毛利家の家史編纂者であるから聞いた話として著作に紹介している。 井野部の記述では、毎月元日 、諸藩士が登城する前に藩主が「もうよかろうか」と言い、近臣が「まだお早う御座います」と返すというものであったとしている。 ただしこれは古老による伝承であると断っており、「後世にはなかった」としている。 この俗話について、2000年当時の毛利家当主・は「あれは俗説」と笑い、「明治維新の頃まではあったのではないか」という問いに「あったのかもしれないが、少なくとも自分が帝王学を勉強した時にはその話は出なかった」と答えている。 江戸時代中期 [ ] 毛利重就 江戸時代中期には、第7代藩主が、宝暦改革と呼ばれる藩債処理や新田開発などの経済政策を行う。 12年()には産物会所を設置し、村役人に対して特権を与えて流通統制を行う。 3年()には、大規模なが発生。 その後の天保8年()には、後に「そうせい侯」と呼ばれたが藩主に就くと、を登用したを行う。 改革では相次ぐ外国船の来航や中国でのなどの情報で海防強化も行う一方、藩庁公認の密貿易で巨万の富を得た。 村田の失脚後は、、などが改革を引き継ぐが、坪井、椋梨と周布は対立し、藩内の特に下級士層に支持された周布政之助がを主導する。 幕末〜明治時代前期 [ ] になると長州藩はやを拠り所にして、おもにで政局に影響を与える存在になる。 また藩士の私塾(当時の幕府にとっては危険思想の持ち主とされ事実上幽閉)で学んだ多くの藩士がさまざまな分野で活躍、これが倒幕運動につながってゆく。 (3年)旧4月には、激動する情勢に備えて、幕府に無断で山口に新たな藩庁を築き、「山口政事堂」と称する。 敬親は萩城から山口(中河原の御茶屋)に入り、幕府に山口移住と新館の造営を正式に申請書を提出し、山口藩が成立した()。 これにより、萩藩は(周防)山口藩と呼ばれることとなった。 同年、とが結託したで京都から追放された。 禁門の変 1864年(元治元年)の、で打撃を受けた長州(山口)藩に対し、幕府はを総督とした第一次軍を送った。 長州(山口)藩では椋梨ら幕府恭順派が実権を握り、周布や家老・らの主戦派は失脚して粛清され、藩主敬親父子は謹慎し、幕府へ降伏した。 その後、完成したばかりの山口城を一部破却して、毛利敬親・元徳父子は長州萩城へ退いた。 恭順派の追手から逃れていた主戦派の藩士は、(博文)らと共に、民兵組織である力士隊と遊撃隊を率いてクーデター()を決行した。 初めは功山寺で僅か80人にて挙兵した決起隊に、民兵組織最強のが呼応するなど、各所で勢力を増やして萩城へ攻め上り、恭順派を倒した。 この後、潜伏先より帰って来た桂小五郎()を加え、再び主戦派が実権を握った長州藩は、奇兵隊を中心としたを正規軍に抜擢し、幕府の第二次長州征伐軍と戦った。 高杉と村田蔵六()の軍略により、長州藩は四方から押し寄せる幕府軍を打ち破り、第二次幕長戦争()に勝利する。 長州藩に敗北した幕府の威信は急速に弱まった。 1865年には、ののであるから、のでを50,000両で購入し、(2年)には、主戦派の長州藩重臣である宅においてのを仲介として議論された末、京都薩摩藩邸()でとの政治的・軍事的な同盟であるを結んだ。 又、旧5月に敬親が山口に戻った事で(周防)山口藩が再び成立する。 長州藩の位置 による討幕運動の推進によって、15代将軍がを行い、江戸幕府は崩壊した。 そして、が行われると、薩摩藩と共に長州藩はの中核となっていく。 では、藩士のがなどで活躍した。 だが1869年(2年)旧11月、山口藩の藩兵による反乱()が起こり、一時は山口藩庁が包囲されたこともある。 1870年10月14日(明治3年9月10日)に、によるが定められ、それまで通称的な呼称であった「藩」が正式な呼称となる。 山口藩は、山口に藩庁を置いていたため「山口藩」を正式名称とすることになった。 4年()旧6月、山口藩は支藩のと合併し、同年8月29日(旧7月14日)ので山口藩は廃止され、山口県となった。 毛利家当主元徳は藩知事を免官されて東京へ移り、第15国立銀行頭取、、貴族院議員となった。 なお、戊辰戦争の戦後処理と明治期におけるに代表される長州閥の言動の影響から、戦闘を行った()と長州藩()の間には今でも複雑な感情が残っているともいわれる。 実際は、長州藩軍は進軍が遅れたため、会津戦争では戦闘を行なっておらず、また占領統治を指揮する立場でもなかった。 現代の観光都市化の流れの中で現れたにより、事実が歪められているという議論も行われている。 支藩・家臣団 [ ]• - 孫藩(支藩である長府藩の支藩)• 岩国領() - 幕府からは曖昧な扱いを受けた特殊な支藩 詳細は「」を参照 藩邸 [ ]• は日比谷御門外に上屋敷、中屋敷は青山に、下屋敷は鰻沢とにあった。 その後に中屋敷、に下屋敷を移す。 また藩邸は、藩邸は田部屋橋に、藩邸は京橋、藩邸は新丁にあった。 後に江戸幕府に没収される。 上屋敷は現在、の一部。 左に上杉家()、右に伊達家()の上屋敷。 『江戸図屏風』では伊達・上杉両家と比べ規模はほぼ同じだが、御成御殿や御成門 もなく質素に描かれている。 菩提寺 [ ] 藩祖・毛利輝元と同夫人は死後その隠居宅だった萩の四本松邸跡地に建立された菩提寺・に葬られた。 天樹院は明治維新後廃寺となったが墓石は残り、同地は旧天樹院墓所として国の史跡になっている。 初代秀就、2代綱広、4代吉広、6代宗広、8代治親、10代斉煕、12代斉広とその夫人はに、3代吉就、5代吉元、7代重就、9代斉房、11代斉元とその夫人はに葬られている。 江戸での菩提寺は愛宕ので、ここは支藩の徳山藩も菩提寺としていた。 そのほか支藩の長府藩と清末藩は芝のを江戸の菩提寺としていた。 歴代藩主一覧 [ ] 歴代藩主の肖像は全て現存しており、毛利報公会が所蔵している。 「萩市史・第一巻」に掲載されている。 代 毛利 代 藩主 氏名(よみ) 官位・官職 就封 在任期間 前藩主との続柄・備考 54 0 もうり てるもと ・ 遺領相続 5 - 9 の子 55 1 — ひでなり ・ 家督相続 元和9 - 4 毛利輝元 の子 56 2 — つなひろ 従四位下・、 遺領相続 慶安4 - 2 毛利秀就 正室の子 57 3 — よしなり 従四位下・長門守、侍従 家督相続 天和2 - 7 毛利綱広 正室の子 58 4 — よしひろ 従四位下・大膳大夫、侍従 遺領相続 元禄7 - 4 、毛利綱広 側室の子・吉就弟 59 5 — よしもと 従四位下・長門守、侍従 遺領相続 宝永4 - 16 養子、長府藩主 60 6 — むねひろ 従四位下・大膳大夫、侍従 遺領相続 享保16 - 元 毛利吉元 正室の子 61 7 — しげたか 従四位下・、侍従 遺領相続 宝暦元 - 2 養子、長府藩主・の十男 62 8 — はるちか 従四位下・大膳大夫、侍従 家督相続 天明2 - 3 毛利重就 正室の子 63 9 — なりふさ 従四位下・大膳大夫、侍従 遺領相続 寛政3 - 6 毛利治親 正室の子 64 10 — なりひろ 従四位下・大膳大夫、侍従 遺領相続 文化6 - 7 毛利治親 正室の子・斉房弟 65 11 — なりもと ・大膳大夫 家督相続 文政7 - 7 養子、毛利斉元はの六男で、 毛利斉熙の。 毛利親著は毛利重就の側室の子。 の同母弟。 66 12 — なりとう 従四位下・大膳大夫 天保7年12月 - 12月29日 養子、毛利斉熙 正室の子・次男 67 13 — たかちか 従四位下・大膳大夫 遺領相続 天保8年4月 - 2年1月 養子、毛利斉元 側室の子(長男) 毛利斉広の娘婿 明治2年1月 68 14 — もとのり ・ 明治2年1月 - 明治4 養子、主・の十男 藩の職制 [ ] 以下は「萩市史」や「図録古文書入門事典」 で『防長回天録』や『もりのしげり』をもとに作成された組織表をもとに記載。 藩主直轄 [ ]• 手廻頭 側近の長。 寄組より任命。 後に実権が奥番頭に移り、儀式だけを行う閑職となる。 直目付 では就任者は「」として掲載されることがある。 役 衆。 手廻頭配下 [ ]• 記録所役 他藩の相当。 奥番頭 記録所役担当以外の藩主側近業務の一切を統括。 武鑑では直目付同様に側用人の項目に掲載されている就任者もいる。 また、「萩市史」では別名を側用人ともある。 役 『萩の古幹』によれば人員20人。 記録所役配下 [ ]• 日帳方• 筆者役 加判役配下 [ ]• 国元家老 配下に手元役。 当職 地方職座とも• 江戸留守居家老 配下に手元役。 当役 江戸職座とも• 大 八組ある大組の長。 寄組より就任。 無給通総頭 無給通士を統括• 徒士総頭 を統括。 大頭 を統括する大組物頭 別名を を統括。 御手廻物頭 手廻足軽を統括• 船手組頭 士を統括• 旗奉行• 鎗奉行• 総奉行 当職配下 [ ]• 裏判役• 手元役• 蔵元両人役• 所帯方• 上勘奉行• 撫育方 毛利重就の代に創設• 産物方• 越荷方• 遠近方• 留守居• 萩、山口、の三箇所に設置。 目付役 、方、横目、目明を統括。 郡奉行配下 [ ]• 郡 大組士より任命。 勘定役、算用役、寺社役、山方、普請方、記録方、番所方を統括。 大組頭支配 [ ]• 表番頭 大組頭不在時に、その代行を勤める。 大組番頭 大組士を統括。 当役配下 [ ]• 当役副使• 用談役• 手元役• 右筆役• 用所役• 矢倉頭• 江戸大検使 幕末の領地 [ ]• - 2村• - 20村• - 23村• - 36村• のうち - 55村• のうち - 6村• - 35村• のうち - 19村• のうち - 28村• のうち - 38村• のうち - 21村• のうち - 39村 上記のほか、後に、、、を管轄した。 脚注 [ ] []• (2014年8月5日時点の)• 2015年12月6日閲覧。 越後国佐橋荘は嫡男のが相続した。 毛利貞親・親衡は越後の毛利領を拠点に南朝に味方し活動。 吉田郡山城の築城者といわれる時親が曾孫の元春を後見した。 慶長5年の検地による石高。 慶長10年()の毛利家御前帳にも同様の石高が記載。 『幕末史の研究』の記述においては、この儀式の後に「年賀の儀式に移る」とされている• 『毛利家文書』「江戸桜田上屋敷指図(寛政8年)」• 15年()にの上杉邸への御成りがあり、能や茶会などの饗応が行なわれている。 (「国宝 上杉家文書」) 参考文献 [ ]• 末松謙澄著・編纂『防長回天史』、 1991年復刻• 時山弥八『もりのしげり』• 『萩市史 第一巻』 萩市史編纂委員会• 橋本博『大武鑑・中巻』名著刊行会、• ・監修『藩史総覧』、• 『別冊歴史読本㉔ 江戸三百藩 藩主総覧 歴代藩主でたどる藩政史』新人物往来社、1977年• 中嶋繁雄『大名の日本地図』、 関連項目 [ ] ウィキメディア・コモンズには、 に関連するカテゴリがあります。 - 前者は毛利元就を祭った神社、後者は毛利敬親、元徳を祭った神社。 - 毛利元就、隆元、輝元、敬親、元徳を五柱として、その他に歴代藩主を祭った神社。

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長州藩とは?場所は何県?家紋や有名人、藩主など長州藩の歴史を解説!

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幕末から明治初期に多くの人材を輩出し、明治維新の最大の原動力となった 長州藩の藩主・毛利氏は、小国領主から戦国大名へと成り上がったことでよく知られ、 「三本の矢」の逸話を持つ毛利元就(もうりもとなり)で有名です。 元就の時代には中国地方十一カ国と北九州の一部を領有する大大名となり、その孫・毛利輝元(もうりてるもと)が豊臣秀吉麾下では五大老の一人として中国地方の大半112万石を所有していましたが、 関ヶ原の戦いで西軍総大将の責任を徳川家康に取らされ、周防、長門の二カ国に押し込められてしまいます。 徳川にやり込められた恨みを延々と持ち続けた事が幕末の武力倒幕へと繋がったと言われていますが、今回は長州藩の場所や家紋、藩主、著名な出身者などを紹介しながら長州藩について調べていきたいと思います。 長州藩の懐具合 徳川幕府から改めて毛利秀就に与えられることになった周防、 長門の石高は30万石だったのですが、厳しい検地が行われた結果、54万石と言う関ヶ原の戦いの敗戦国ではあり得ない石高だったため、幕府発表で37万石と言う数字で落ち着くこととなりました。 しかし、毛利家はその後も新田開発を続け、 幕末期には実高100万石を越えていたと言われています。 物流に関しても九州地方や中国、朝鮮半島の大陸からの本州の玄関口として栄えた下関があり、ここには北前船(西廻り航路)も就航し農作物の流通も順調でした。 このため表高37万石でも相当に藩の財政は裕福で、これが幕末の長州藩の軍備に繋がっていきます。 長州藩と徳川幕府との関係 長門、周防に転封となった毛利家では、関ヶ原の戦いで東軍に内通していた吉川広家が 徳川家康に約束を反故にされた恨みが根強く残っており、毛利家では新年拝賀の儀で筆頭家老が「今年は倒幕の機はいかに」と藩主に伺いを立て、藩主が「時期尚早」と答える習わしがあったと囁かれていました。 現代の毛利家当主はただの俗説だと否定していますが、このような話が噂としてちまたに流布する事が毛利家の立場を表していると言えます。 幕末に公武合体論や尊皇攘夷論が巻き起こると、これを拠り所として長州藩は京都政局の中心に位置することとなり、長州藩士・吉田松陰(よしだしょういん)の私塾・松下村塾で学んだ多くの若き藩士たちがあらゆる分野で躍動し、これが倒幕運動への大きな流れを作っていきます。 幕末の長州藩 1800年代になると村田清風(むらたせいふう)を登用した 天保の改革によって藩政改革が行われ、そのあとも坪井九右衛門(つぼいくえもん)、椋梨藤太(むくなしとうた)、周布政之助(すふまさのすけ)らが改革を引き継ぎ、特に 下級武士から支持された周布政之助は安政の改革を行い、この間に藩公認の大陸との密貿易で長州藩は巨万の富を得ることになります。 この金を元手に朝廷政治の主導権を握るため、京都の花街(祇園、先斗町など)で 桂小五郎や久坂玄瑞らはお金を湯水のごとく使い、長州藩には無尽蔵にお金があると見せて朝廷を思うがままに操っていきます。 長州藩が京都で実権を握ったのちは尊皇攘夷派の志士による天誅と称した暗殺が横行しますが、これは長州藩だけでなく土佐藩や薩摩藩、水戸藩などの過激派によるもの、また公武合体派や佐幕派による尊皇攘夷派の暗殺などが入り乱れており、一概に長州藩によるテロ行為とは言い切れないところもあります。 しかし長州藩による京都政局の支配も会津藩や薩摩藩によって打ち砕かれ、 八月十八日の政変や池田屋事件、禁門の変で京都から追放され、このあと徳川幕府による長州征伐が行われました。 長州藩毛利氏の家系 毛利氏の先祖を辿っていくと、 もともとは鎌倉幕府を開いた源頼朝(みなもとのよりとも)に仕えた大江広元(おおえのひろもと)にたどり着きます。 大江広元は鎌倉幕府の 政所初代別当すなわち、幕府の財政と政務を預かる役所の長官で 今の内閣総理大臣に当たる役職です。 この大江広元の四男・季光(すえみつ)が毛利姓を名乗り、承久の乱での論功行賞で安芸国吉田荘を賜ります。 このあと毛利氏は執権北条氏と宝治合戦で対立した三浦氏に付いたため一族ほとんどが果ててしまいますが、越後国に赴任していた四男の経光(つねみつ)が生き残り、経光の四男・時親(ときちか)が安芸国吉田荘を継いで安芸毛利氏を名乗り、この血筋から毛利元就が出ます。 長州藩毛利氏の家紋 毛利氏の先祖である大江広元の祖先を遡ると、平城天皇の第一皇子・ 阿保親王(あぼしんのう)にたどり着きます。 阿保親王は律令制のもと皇族の中で最も高い品位である一品(いっぽん)を与えられた親王だったため、 この一品を図案化して「一文字に三つ星」の紋を大江氏が使用しました。 毛利氏の家紋もこれを使用しており、 一文字は「かたきなし」(無敵)の意味を持ち、三つ星は軍神として信仰のあった三武・将軍星(オリオン座の中央に輝く星)を表しており、毛利氏の支藩(長府藩、徳山藩など)、同族である長井氏もこの家紋に少しアレンジを加えて使用しています。 歴史上有名な長州藩出身者・幕末編 吉田松陰(よしだしょういん) 長州藩士にして私塾・松下村塾にて久坂玄瑞や高杉晋作らを教え、明治維新の原動力となるよう育てます。 彼の教えが明治維新の精神的支柱となりますが、 安政の大獄に連座して斬首されます。 長州藩幕末の藩主・毛利敬親 長州藩第13代藩主・毛利敬親は世襲家老家一門八家の一つである福原家の出身ながら紆余曲折を経て、毛利宗家を継ぎます。 村田清風を登用して藩政改革を行い、貨幣改革や質素倹約を進め、江戸に藩校・有備館を建設、国許にある藩校・明倫館の改革も行いました。 周布政之助らを登用すると洋式軍制を採用、尊皇攘夷を藩論として推し進めるも八月十八日の政変や禁門の変などで苦境にたち、徳川幕府による長州征伐で絶体絶命のピンチを迎えますが、 若手藩士や新しい人材の登用は怠らず、奇兵隊を始めとする長州藩諸隊を整備、大村益次郎による大規模な軍事改革を行って難局を乗り切り、長州征伐に勝利します。 明治新政府になっても薩摩藩、肥前藩とともに率先して版籍奉還を行い、長州藩出身の新政府官僚たちを支える側にいましたが、明治四年に多くの長州出身者に惜しまれながら享年53歳で山口藩庁で死去しました。 幕末における長州藩の存在とは 明治維新の両輪となった薩摩藩と長州藩は、ともに関ヶ原の戦いで西軍に属し徳川幕府からは外様大名として扱われますが、大きく所領を減らされた長州藩と本領安堵であった薩摩藩とでは徳川幕府に対する態度に温度差があったのは当然のことでしょう。 薩摩藩が公武合体から倒幕へと進路変更したのに対して、長州藩は尊皇攘夷思想の教育を若い藩士に行い、当初から武力討伐へ動くことを容認するかのような藩の体制でした。 結局、この二つ雄藩が倒幕派の中心となり、これに協力した土佐藩などによって徳川幕府は倒れますが、 新政府の人事においては長く薩摩藩と長州藩出身者が政権を握り続け(藩閥政治)、1929年の田中義一内閣が総辞職するまで約60年続きます。 しかし、彼らもまた自由民権運動や大正デモクラシーによって新たな時代の波によって葬り去られていきます。 「歴史は繰り返される」長州藩出身者の運命もまさしくこの通りだったのです。

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